二次小説

永遠のジュリエットvol.34〈キャンディキャンディ二次小説〉

冬晴れの空の下、キャンディがアメリカ行きの船に乗ったのは、テリュースが病院からいなくなってから五日後のことだった。傍らにはそっと寄り添うアルバートの姿があった。

Uボートによるシーナ・センチュリオン号への無差別攻撃は、全世界の非難を浴び、ドイツは一般の船への爆撃は中止すると発表していたし、イギリス・アメリカ連合軍による客船への護衛艦の配置も行われ、シカゴ・サウザンプトン航路は間もなく再開すると発表があったが、ふたりは安全をとり、サウザンプトンではなく、リパブール経由で帰途についたのだった。

サウザンプトンからリバプールまで鉄道で移動し、船でアメリカに戻る。こんなにも早く帰途につくことができたのは、アードレー家の巨大な力があればこそだ。

「キャンディ、甲板は冷える。そろそろ中に入ろうか」

船の上から見えるリパブール港がだんだんと遠くなっていき、やがて水平線の向こうに完全に見えなくなると、アルバートが隣に立つキャンディに声をかけた。

「そうね、アルバートさん………」

キャンディは心の中で葛藤しているような顔をして、小さく唇を噛む。

同意の意志を伝える返事はしたが、まだ船が出航してきた方向から目を離せないでいた。否。テリュースのいるイギリスから気持ちを捨てきれないでいた。

あのイギリスにはテリュースがいる。そのテリュースが、自らの意志で仮設病院から居なくなったのだとはキャンディは思わなかった。きっとそうしなければならない理由があったはずだとわかっていた。

『どこか遠いところに一緒に行こう。すべてを捨てて』

あの言葉がテリュースの本心であることも、自分を愛してくれていることもキャンディはわかっている。ロックスタウンで見たボロボロになったテリュース。あの時は、ただ別れの辛さに心がついていかなかったのだろうとキャンディは考え、いつかその辛さが癒えれば、彼はきっと復活すると信じていた。

その通り、テリュースはブロードウェイに戻り、俳優として再スタートした。スザナの元へ戻り、恋人として婚約までしたふたり。

しかし。

それはテリュースの望むものではなかった。テリュースにとって俳優の道よりも大切にしたいものは、キャンディと生きることなのだ。そのことをはっきりとキャンディに告げたテリュース。

だが────。

もうキャンディには、人生には愛していても結ばれぬ運命があることもわかりはじめていた。どれほど愛し合っていても許されない。周囲が、そして何よりふたりを取り巻く状況や時の流れがそれを許さない。人は、それを”運命”と呼ぶのかもしれない。

愛を貫き通そうとすればするほど大切なものを失い、運命に逆らえば逆らうほど、傷ついてしまう愛する人。

それならば、静かに運命を受け入れるべきなのかもしれない。そうやって人は生きていくのかもしれないとキャンディは寂しくそう思う。

やがて。

キャンディは、そんなことを思う心の中すべてを捨て去るように、くるりと海に背を向けるとアルバートを見上げた。

「ねえ、アルバートさん。お腹すかない?わたし、なんだか甘い物が食べたくなっちゃった」

港につき、船に乗り込むと急に黙り込んだキャンディ。彼女の心の中にあるものに、もちろんアルバートは気づいている。

だが、それでも今は養父としてではなく、ひとりの男としてキャンディを守っていくという決心に迷いはなかった。

アルバートはそんなキャンディを見下ろして慈しむように微笑んだ。ただ、今は待っていよう、キャンディの心から彼が遠くなるのを……、そう思いながら。

「キャンディ、君がそろそろそんなことを言い出す頃だと思っていたよ。実はこの船にある”ベランダカフェ”には、NYの有名スイーツ店で修行したシェフがいるらしいんだ。彼の作るマカロン・ド・モンモリオンは有名らしい。行ってみないかい?」

「マカロン……、モンモン……?」

ぷっと吹き出すアルバート。

「キャンディ、モンモンじゃなくて、モンモリオン。フランスのモンモリオン地方のマカロンという意味なんだ。彼の作るマカロンは”王冠”のようだと言われているそうだよ」

「まぁ、王冠?どれだけすごいスイーツなんだろう。わたし、本物の王冠より、王冠みたいなマカロンの方が断然いいわ」

「キャンディらしいね」

アルバートは笑って、エスコートするように優しく肩を抱き寄せる。そうするのが当たり前のように。

そんなアルバートに微笑みを返すキャンディ。

ふたりがシカゴに到着したのは、それから六日後のことだった。

それから三ヶ月ほどが過ぎ、ロンドンに春がやってきた頃。

ロンドンの高級住宅街ベルグレイヴィアにあるグランチェスター邸の美しいタペストリーが掛けられた音楽室で、テリュースはピアノにむかっていた。

長く男性的な指が奏でるのは、ベートーベンのソナタ14番第三楽章。

以前は、”緻密な設計図”のような楽譜のバッハを好んで弾いていたテリュースだが、今弾きたいと思うのはベートーベンだった。

襲いかかる過酷な運命に敢感に立ち向かうベートーベンが、嬰ハ短調に込めた”愛する人に届かない想い”。

低音から高音に駆け上がる速いアルペジオが、怪我をした右手のリハビリに良いだろうと選んだ曲だが、情熱的な旋律で紡がれる湧き上がる激しい情念は、テリュースのキャンディへの想いを代弁してくれるかのように思えた。

だが今はまだ。

レガートで弾くテリュースのアルペジオは、少しだけぎこちなかった。

「まだ右手の中指と薬指の動きが悪いな」

プツリと演奏を止めて、テリュースは自らの指を見つめる。

傷痕の残る身体は、通常の生活には困らないほどに回復していたが、まだ細かな指の動きや、ふとした瞬間の右腕の稼働も鈍い。

右足も、杖なしで歩けるようになっていて、医者からは、順調に回復していると太鼓判を押されたが、爆撃のショックで甲板に叩きつけられ、大怪我をおった右半身は、まだ完全に元に戻っていない事にテリュースは気づいている。

あと少しだ。

あと少し。

そう自分に言い聞かせて、焦りと後悔の中、苦しいリハビリにも耐えてきた。

『リハビリ開始は、早ければ早いほど治りが良くなります。俳優として動かれるなら、なおさら早くはじめられる方がよいでしょう』

そう言って、父リチャードが手配した医療チームは、過酷なリハビリメニューを要求したが、テリュースはただ黙々とそれらをこなしたのだった。そのかいあって、成果はすぐに表れ、テリュースはめきめきと回復していったが、その原動力は、キャンディの存在だった。早くキャンディを探し出せるように動けなくてはと思う、執念にも似た気持ちだった。

テリュースはもう、キャンディを連れて、ふたりでこの世界を逃げ出そうとは思っていなかった。

それよりも。

父親と約束したRSC(ロイヤルシェイクスピア劇団)のプリンシパル(主席)になるという道を実現させようと決心していた。そうすれば、すべてを守れるのなら。

そのためには、一刻も早くアメリカに帰国しなければならない。ブロードウェイに戻り、揺るぎないスターの地位を得て、それを足掛かりにRSCのプリンシパルの座にかけ上る。グランチェスターの名前に潰されないために。自由に生きるために。そして何よりキャンディを迎えにいくために。

だがその前に、キャンディにふたりの未来について伝えなければならなかった。

『必ず、君を迎えにいくから待っていてくれ』と。

それなのに、今だにキャンディとは連絡が取れていなかった。

ロンドンに戻ってからすぐに、テリュースはサウザンプトンの仮設病院にいるはずのキャンディ宛に手紙を書いたのだが、その手紙は別の封筒に入れて返送され、『キャンディス嬢は退職なさっており、お手紙をお渡しできませんでした』と短いメモが同封されていた。

他の病院に移ったのだろうかと、もう一度、今度はDr.トーマスにキャンディの居場所について知っていることを教えてもらえるように手紙で頼んだが、彼からの返信は、彼女がどこへ行ったのかわからないというそっけないものだった。

『キャンディ。どこへ行ったんだ』

この三ヶ月ほどの間、思いつくところはすべて、人をやって探したがキャンディの行き先はまったくつかめなかった。煙のように消えてしまっていて、どこにも痕跡がない。

もしかしたらキャンディはもうイギリスにはいないのかもしれない。アメリカに戻ったのか、それとも看護師として大陸へ渡ったのだろうか。

どこへいるんだ、キャンディ。何をしているんだ。仮設病院にいれば、俺が連絡してくると待てなかったのか。

いや、それより、なぜ俺に居場所を伝えてこない。何かできない理由があるのか?

もしかしたら、キャンディは俺がロンドンに戻ったことを知らないのかもしれない。

そんなことばかりを考える日々。

そして、テリュースは、あの時列車のチケットを待たずに、すぐにでも仮設病院をふたりで抜け出すべきだったと激しく後悔する。

キャンディに事情を話すこともできないまま仮設病院を後にせざるをえなかったテリュースにとって、今、キャンディに連絡をとることは何よりも大切なことだった。

早くブロードウェイに戻り、俳優として復帰しならなければと思う気持ちと、早くキャンディを探さなければという気持ちで、テリュースは揺れ動いていた。一旦アメリカに戻れば、キャンディを探すための時間をつくることは難しい。

どうしたらいいんだ─────。

テリュースは、思考の渦に引きずり込まれそうになる。ロンドンに連れ戻されてから、それはテリュースの日常だった。

と、その時。物思いを破るようにコンコンとノックの音がした。

広い屋敷には、継母や祖母たちは戻っておらず、最低限の使用人しかいないグランチェスター家は静まり返り、邪魔をするものはいない………、はずだった。

そこへ現れたのは父、リチャード。

「テリュース、その曲を弾くのはやめておけ」

窓の外はキラキラと陽光が輝く早春の空。だがまだ少し、柔らかな空気の中に冷やかな風が吹く日だった。

リチャードが、つかつかと部屋に入ってくる。

「それは、“戦争中だから”ですか?」

「そうだ。先日もドイツと繋がっているとスパイ容疑をかけられた政治家が失脚したところだ。どこに耳があるかわからない。ドイツ人の曲はまずい」

「………わざわざそんなことを言いに?」

テリュースの口調には呆れたようなニュアンスが含まれていた。

「いや。お前に招待状が届いているのでな。早い方がいいだろうと私が持ってきた」

リチャードは手にしていた王家の紋章の封蝋のついた一通の封筒をテリュースに手渡した。

「アレクサンドラ王太后殿下からの招待状だ。お前を殿下の私的な茶会に来させるようにと」

「私的な茶会?」

「そうだ。あくまでもごくうちうちの茶会だそうだ。お前がブロードウェイに戻る許可はいただいているが、アメリカに戻る前に、いちど顔を見せるようにとのことだ」

「茶会とは………。戦争中だと言うのに優雅なことですね」

国王も近々ヨーロッパ戦線に向かうとの発表がなされている上、定例の王室行事が中止されている中の茶会とは。テリュースは嫌みを込めて呟いたが、行かないわけにはいかないのは理解していた。

顔だけ出したらすぐに退散することにしよう、テリュースはそう思った。

昼下がりの午後。春の風が若葉を揺らしている。

広大なケンジントン宮殿敷地内にあるアレクサンドラ王太后の私邸”パークハウス”。ここは、彼女の趣味を注ぎ込んだ小さいが華麗絢爛な館で、宮殿内に入ることを許された貴族たちでも、この私邸には、彼女の特別なお気に入りしか出入りできないのだった。

お茶会の催される部屋の壁面には、王太后お気に入りの絵画や意匠を凝らした鏡が飾られていて、中央にはマホガニーの大きなテーブルがあった。そのテーブルの周りには、王太后を囲み、色とりどりのドレスに身を包んだ六人の若き令嬢たちの姿が、すでにあった。

執事に案内され、重厚なドアが開かれ、テリュースが部屋に入った瞬間、一瞬にしてすべての視線が彼に集まる。彼の周りにだけ光が集まっているかのような輝きを見せるその圧倒的なオーラに、おしゃべりを楽しんでいた令嬢たちは、はっと息を飲み込み、口をつぐんだ。

慣習に従いホワイトタイで正装したテリュース。すらりとした長身。艶のある柔らかな栗色の髪に男性的な色香が漂い、気品が滲み出るブルーグレイの瞳。

しばらく惚けたようにテリュースを見つめていた令嬢たちは、やがて飲み込んだ甘い吐息を吐き出した。

「…………なんて素敵な方なの。あの方はどなた?」

「社交界ではお見かけしないわ」

令嬢たちは皆うっとりとした表情を浮かべ、一体彼が何者であるのかと王太后のところへやってくる一挙手一投足を見つめる。

「よく来ましたね、テリュース」

笑顔ひとつ見せないテリュースであったが、それを気にする風もなく王太后が声をかける。モスグリーンのドレスに身を包んだ王太后は、今年73歳になるとは思えないほど若々しい。

「お招きいただきありがとうございます」

凛とした声でテリュースが応え、王族に対する礼をとる。テリュースの他に男性はいなかった。

「こちらにお座りなさい。今日のお茶会は、わたくしのごく親しい者たちの集まりです。あなたを皆に紹介したいと呼びました」

テーブルの上には美しいスイーツ、サンドイッチやスコーンが乗せられたプレートが並んでいる。アレクサンドラ王太后のお気に入りは、アールグレイ。執事がテリュースにもお茶を運び、ゆっくりと話をする体勢が整うと、王太后がテリュースをグランチェスター家の子息であると紹介する。

すると令嬢たちは、風を受けて揺れる色とりどりの花畑の花のようにさざめいた。

「グランチェスター公爵家ですって?グランチェスター家のレイモンドさまは戦死なさったと聞いたわ」

「では、テリュースさまは、レイモンドさまのご兄弟?」

「でも似ていらっしゃらないわね」

テリュースとひとつ違いの義弟レイモンドは、すでに社交界にも出入りしていて、広く顔が知れ渡っていた。名門グランチェスター家の跡継ぎとして。

「ああ、王太后さま。テリュースさまのこと、もっと詳しくご紹介くださいませ」

そんなことを言う令嬢たちに、アレクサンドラ王太后は満足気にうなづく。

「皆がテリュースを知らないのも無理はないのです。テリュースはアメリカのブロードウェイで俳優をしているのですから」

「まぁ俳優を?」

「道理で、華やかで素敵な方ですこと」

「テリュースは、グランチェスター公爵家の長子。先般の海戦で命を落としたレイモンドは、彼の異母弟にあたるのです」

さらりと言うと、次に王太后はテリュースに令嬢たちを紹介していく。6人はすべて公爵や侯爵など、高位の貴族の令嬢だった。そしてみな、王家に連なる血筋を持つ家系ばかり。その中には、レイモンドとの婚約話も出ていたという女性もいるのだった。

テリュースは、今日この場にいる令嬢たちが、王太后によって選ばれた女性であることを理解し、王太后と祖母の思惑に胸騒ぎを感じる。

レイモンド亡き後、グランチェスター家に、男子はテリュースしかいない。自分の血筋につらなる息のかかった者をテリュースと婚姻させ、生まれた男子に跡を継がせて実権を握ろうというのか。

そうすれば、一時的にグランチェスター家はテリュースに渡っても、ゆくゆく実権は取り戻せる。そう考えたのかもしれないとテリュースは思った。

そんなテリュースの苦々しい気持ちを素知らぬように、王太后は主(あるじ)としてその場を華やかに盛り上げ、自然に話題はブロードウェイのこととなった。

以前なら意にそわない会話などしないテリュースだったが、ストラスフォード劇団で役がつくようになってから、パトロンやタニマチと言われるスポンサーとのパーティーの場にもかりだされることが増えていた。

芸術を愛し、庇護する気持ちという免罪符を掲げ、テリュースを自分の思いどおりにしようと企む人間もいたが、その場を上手に切り抜ける方法はすでに身につけていた。

今日もめんどくさいことにならないうちに、早いとこ退散しよう。そんなことを思いながら、テリュースは令嬢たちの質問ぜめを無難にやり過ごすのだった。

そして。

なんとか失礼にならない程度の時間をそこで過ごしたテリュースが、アレクサンドラ王太后に暇(いとま)を告げようとした瞬間。

ガチャン────。

テリュースの隣に座っていた令嬢が、指を滑らせてカップをソーサーに落としてしまう。割れはしなかったが、その弾みで、紅茶の飛沫がテリュースにかかってしまった。

こぼしたのは、ギルモートン公爵家の令嬢で、義弟レイモンドとの婚約話も出ていたというクレアという美しい女性だった。

「申し訳ありません、テリュースさま」

クレアは、優雅に、だが、泣き出さんばかりに恐縮してテリュースに詫び、すぐにハンカチを渡そうとする。だがテリュースはそれを手で軽く制止し、『大丈夫ですから』とだけ言うと、周りに退席を謝罪し、執事に渡されたタオルだけ抱えてさっさと部屋を出た。

そして、案内された部屋のラヴァトリーに入り、濡れた上着を脱ぐ。上着は飛沫がかかった程度でたいしたことはなかったが、このまましばらくここで煙草をふかしてから戻ろうと考えていたその時。

「テリュースさま。」

突然、後ろから声をかけられる。

開いていた扉から、スッと絹ずれの音とともに入ってきたのは、クレア・ギルモートン。

緋色のドレスが似合う、令嬢の中でも群を抜いて華やかな目鼻立ちの女性だった。

謝りにでも来たのかとテリュースが思った時。

「ふふふ。うまくいきましたわ」

クレアは、先ほどのしおらしい態度とは違って、堂々とテリュースに微笑みかけた。

「うまくいった、とは?」

テリュースは訝しげに低く問いかける。

「テリュースさまとふたりきりでお話がしたかったのです。誰にも邪魔されず、今日、今、すぐに」

そう言うとクレアは、パタンと後ろ手にドアを閉めた。

「ねえ、テリュースさま。王太后は、わたくしのおばあさまなのです。わたくしを妻に迎えれば、この国での栄耀栄華は思いのままですわ」

「君は、そう言ってレイモンドも自分の意のままに動かしたのか?」

テリュースが屋敷にいた頃、継母は、レイモンドとテリュースが口を聞くことを許さず、義弟のことは何も知らなかった。どんな性格なのかも、何を考えているのかも。

レイモンドが、義兄のことをどう思っていたかもわからないが、事あるごとに継母に反抗するテリュースを、恐ろしいものでも見るように遠まきにしていたことだけは鮮明に覚えている。レイモンドは、どんな時でも母親に従う口数の少ない子供だった。

そんな男なら意のままに操れたのだろう。

「ええ、…………まぁ、そうですわ。レイモンドさまは、わたくしと知り合う前は、イートン校のご学友の妹さんとお付き合いなさっていたようでしたけど、その方とは別れ、わたくしと正式に婚約するお話が進んでおりました」

「だが、レイモンドが戦死して、その話はたち消えた………」

「そうです。わたくし泣きました。レイモンドさまの、いえ、名門グランチェスター家の跡継ぎと結婚できると思っておりましたのに」

そんな本音を堂々と口にするクレアに。

「グランチェスターの名がそんなに良いのか?王太后を祖母に持つのならば、良縁は思いのままだろうに」

「そうですわね。でも実は、爵位と財産と年齢が、わたくしに見合っている貴族はそれほど多くはありませんわ。そもそもわたくしと身分が釣り合う未婚の男性は多くありませんから」

「だからこんな真似をしてでも、グランチェスター家の嫁になろうと?」

クレアは艶然と笑った。

「そうですわ。それに、テリュースさまご自身にとっても、わたくしを妻に迎えることは悪いお話ではないはず」

「……………どういう意味だ?」

氷の刃を言葉に潜ませるテリュース。

「わたくし、存じておりますのよ、テリュースさまの出自の秘密を」

そう言うとクレアは、勝ち誇ったようにテリュースに近寄り、上目遣いでテリュースを見上げた。

「テリュースさまは、失礼ながら………日陰の存在。レイモンドさまが亡くなられる前までは、正式なグランチェスター家の跡継ぎとは認められていなかったはず。ですからこれからも口さがない貴族たちは、色々なことを言うでしょう」

クレアは、形のよい眉を得意気にあげて見せた。

「ですが、わたくしを妻に迎えれば、王家が後ろ楯になるのです。テリュースさまに物申せる者はいなくなります」

「なるほど。日陰の身の俺には、君という妻がいれば、怖いものはなくなるということか」

「そうですわ。ですからこうしてテリュースさまにとって何が大切か、どうすればよいかをお伝えにまいりましたの」

そう言って、テリュースの頬に、ゆっくりと白く滑らかな片方の手を持っていくクレア・ギルモートン。誘惑するように。

「なるほど。君の言いたいことはよくわかった」

テリュースは、穏やかにそう答えると、ふっと息をはいた。

そして次の瞬間。

テリュースは素早く、頬に添えられた方の令嬢の腕を捕らえ、そのまま壁に彼女の身体ごと押し付けた。

どんっ。

「きゃっ」

クレアが短く悲鳴を上げる。

テリュースは、腕を離さないまま、壁に押し付けた彼女を、底知れぬ冷たさをたたえた瞳で見据える。冷たい壁の感触と同じくらい冷えたテリュースの瞳にぞくりと震えるクレア。

「テッ、テリュースさま?」

思いがけないテリュースの振る舞いに、彼女の声は裏返り、焦りを含んでいた。

「その“日陰者のテリュース”は、グランチェスター家の問題児だから気をつけろと、誰か教えてくれなかったのか?」

「き、聞いてませんわ。こっ、こんなことをなさって、わたくしがおばあさまに申し上げたらどうなるかおわかりですの?」

その言葉に。

「言いつけるがいいさ。君の祖母が、今日の淑女らしからぬ振る舞いをなんと言うか。それに」

テリュースは、ニヤリと皮肉に歪む微笑みを浮かべると、もう片方の腕で、彼女の腰をぐいっと引き寄せる。

「他の令嬢を出し抜いて、ここへ来たのは、俺とこういうことをしたかったからだろう?」

テリュースは、口づけをするのだとクレアに思わせるように、近く顔を寄せた。予期せぬテリュースの行動に、青くなったり、赤くなったりするクレア。

そして。

そんなクレアに、テリュースはきっぱりと告げる。

「君の持っている地位も、実家の財力も、君の肉体にも興味はない」

そう言い放つと、テリュースは腕を軽く振り払って身体を離すと、クルリと踵を返して、後も見ずに部屋を出ていく。くたくたと崩れ落ちるクレア。

閉じた扉から、自分の名を呼ぶ声が聞こえたが、テリュースはそれを無視をした。

父リチャードは、アレクサンドラ王太后から、ブロードウェイに戻る許可を取ったと言っていたが、それは表向き、リチャードの顔を立てたのであって、本音はこのまま自分の息のかかった者と婚姻させようと画策しているのだとテリュースは感じた。

とっととこんなところ(イギリス)から離れなければ、テリュースは小さく呟いた。

「もう行くのか」

アメリカへ戻る旅の荷造りをしているテリュースに、部屋にやってきたリチャードが声をかけた。荷造りと言っても、自分の部屋にある本を、小さなトランクに入る分だけ持っていこうと選んでいただけだったが。

父リチャードとは昔のように言い争うことはなくなっていたが、それでも屋敷にいる間、口をきいたのは数えるほどだった。

「ええ。明日早朝の列車でたちます」

「そうか………」

リチャードはそれだけ言うと黙ったまま、テリュースの荷造りを見ている。

「………なにか?」

テリュースが、次の言葉を発しないリチャードにしびれを切らして問うと、彼は持っていた古い革表紙の本を差し出した。

「これを持って行くがいい」

それは、クォート1と呼ばれるシェークスピアの『ハムレット』だった。

「それは………」

グランチェスター家のライブラリーには『シェークスピア全戯曲集』のファーストフォリオが置いてある。

その戯曲集は、シェークスピアの36作品が集められたもので、1623年にシェークスピアの友人たちによって出版されたものだが、クォート1はその全戯曲集よりも以前に出版されたものだった。

「そんな貴重な物を、勝手に外に持ち出してもいいのですか?」

クォート1は、ハムレットの原型だと言われているテキストで、テリュースは以前、サザビーズのオークションで見かけたが、まったく手が出ないほどの高値で落札されていた。

“リチャードは飾り物の跡継ぎ”だからと、皮肉な感情が入り込むテリュースの父親への問い。本人も意図せずに。その問いにリチャードは静かにこたえる。

「確かに、この屋敷にあるものはすべて、次のグランチェスター公爵に引き継がれるものばかりだが、私が父上からいただいたふたつの物だけは、自由にしていいと思っている」

「ふたつの物…………?」

腹違いの兄たちは早くに早世し、リチャードは無理やり跡継ぎとして連れてこられたと王太后から聞いたが、テリュースはリチャードにその事について何も尋ねてはいなかった。

「そうだ。そのうちのひとつは、すでに人に渡して今私の元にはないが、もうひとつ、ここにあるこの本は、私の物だ。この屋敷に私がやってきた時、父上が直接下さったものなのだ」

RSCで俳優をしていた父リチャード。そのリチャードにシェークスピアの戯曲本を渡した前公爵は、詫びの気持ちでその本を渡したのだろうか?この家で、リチャードとその父がどのような関係であったのかわからないが、幸せな家庭であったとは、テリュースは思えなかった。

「これをお前にやろう。ブロードウェイにもって行け。RSCのプリンシパルになるためにハムレットは必要不可欠だ」

そう言って、かがみ込むと、テリュースの開いたトランクにそっとハムレットを置く。

「このクオート1は、物語の本質を捉えるのに向いている。お前がハムレットを演じる時に必ずや役に立つだろう」

「父さん………」

テリュースは今、リチャードに言いたいこと尋ねたいことをずっと心に抱えてきたことに気がついた。その沸き上がる様々な感情に流されそうになって、テリュースは言葉を紡ぐことが出来ないでいた。

「いいか。お前は私と同じ道は歩むな。”責任”と”愛”は違う。間違えるな、テリュース」

リチャードは、いつものように感情を表に出さないままさらりと言うと部屋から出て行く。

『責任と愛は違う。間違えるな────』

リチャードの低く静かな声が、テリュースの胸にこだましていた。

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ABOUT ME
ジゼル
「永遠のジュリエット」は、あのロックスタウンから物語がはじまります。あの時運命が引き裂いたキャンディとテリィ。少女の頃、叶うなら読みたかった物語の続きを、登場人物の心に寄り添い、妄想の翼を広げて紡ぎたいと思っています。皆様へ感謝をこめて♡ ジゼル

POSTED COMMENT

  1. ルナルナ より:

    ジゼルさん今晩は、永遠のジュリエット続き待っていました。嬉しすぎてたまりません。何度も読みました。
    アルバートさんと一緒にアメリカに帰るキャンディが、テリィと離ればなれになる運命を受け入れてしまいそうで切なくてたまりません。そしてテリィもまたキャンディと離ればなれになってしまった事を後悔し苦しみながら葛藤するテリィ。キャンディを諦めるのではなく早く1人前になって自由になりキャンディと結ばれる事を決意するテリィカッコいいですステキです。
    どうか早く2人が結ばれますように。
    離ればなれはせつなすぎです。
    心の中でベ―ト―ベンをひくテリィを想像したり、妄想だらけです。おもいっきり浸りました。ありがとうございます。

    • ジゼル より:

      ルナルナさま

      ご無沙汰しておりました。

      何度も読み返したとおっしゃっていただき、本当に嬉しいです。心から感謝いたします。涙。

      テリィのイケてる姿、妄想してしまいますよね!私も!むっちゃ妄想します!
      いがらし先生に『あの当時のタッチのイラストで』色んな妄想テリィを描いていただけたらいいのにな~。

      グランドピアノを弾くテリィ。
      ハムレットで舞台に立つテリィ。
      キャンディと正装でキメキメなテリィ。
      お部屋で夜くつろぐテリィ。
      寝起きのテリィ。
      キャンディにデレッとなってるテリィ。
      他の女に冷たくしてるテリィ。
      アルバートさんに嫉妬全開なテリィ。

      もうなんなら歯磨きしているテリィとかシャワー浴びてるテリィとかも見たいかも(笑)

      そう思われませんか?

      次回から物語はアメリカに戻ります。

      キャンディを迎えに行くために俳優として必死に努力し、成長していくテリィと静かに運命を受け入れようとするキャンディ。そのキャンディを守ろうとテリィへの気持ちをそれまでと変えたアルバート。

      テリィがアメリカに戻れば、スザナとの関係も決着?をつけなければならないと思います。

      拙い私の文章で、それらの妄想をうまく表現できるか不安ですが、大好きなキャンディキャンディの世界に浸れるこの時間は、癒しの時間でもあります。

      来年も書き続けますので、見捨てないでくださいね!

      いつも温かな応援をありがとうございます。来年もよろしくお願いいたします!

      ルナルナさま、よいお年をお迎えくださいませ!

  2. ひろぽん より:

    ジゼルさま
    こちらでははじめまして、ですね。
    更新ありがとうございます。待ってましたよ:sparkling_heart:

    フラれるアルバートさんを見るのはつらいけれど:laughing:、
    ここは、テリィとキャンディの幸せを祈って
    テリィがどうやって役者として成功していくのか
    楽しみです。それと、テリィパパの活躍も❤

    そしてそして、
    かませ犬のクレアとの壁ドン:laughing:
    メイフェスティバルの時にチューしちゃって
    ケンカになったとき、
    「アンソニーならどんなキスをしたっていうんだ!」
    って言ってるときのテリィの顔を想像しながら読みました:grin:

    ステキなクリスマスをお過ごしくださいね。

    • ジゼル より:

      ひろぽんさま

      わぁ!わざわざこちらまでコメントをいただき、ありがとうございます。
      すごく嬉しいです。感謝いたします。

      そうですよね!
      『アンソニーならどんなキスをしたって言うんだ』みたいなことをテリィが言ってましたよね。

      あれ、読んでいて照れたなぁ(笑)漫画のテリィの顔も印象的で、私も覚えています!

      大人になって考えれば、キャンディのセリフは、『アンソニーなら、無理矢理キスしたりしないわ』ってことだろうし、テリィは腹立ち紛れに言い返したセリフなのかな~と思ったりしますが、当時は、『キスって、上手い、下手ってあるわけ?きゃーっ』とか思ったもん。
      小学生だから、ほら(笑)

      もうすぐ、クリスマスですね。
      アンソニー、アルバートさん、テリィの中で、1番クリスマスデートが似合うのって、アルバートさんだと思いませんか?

      似合うというか、1番クリスマスに一緒に過ごしたい男性。

      あ、もちろん、私はアンソニーが本命ですが、アルバートさんとのクリスマスデートは、アルバート派でなくとも、『素敵な時間になりそう』って感じます。

      女子好みのおしゃれなデートプランを持っていそうで。
      アルバートさんとのクリスマスデートは、かなりゴージャスな夜になりそう。

      テリィって、意外にも?ゴージャスなデートをするイメージがなくて、あるのはアルバートさん。

      って、そんなイメージを抱いているのは、わたしだけかな~。

      ひろぽんさまも素敵なクリスマスをお過ごしくださいませね!

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