テリュースは、1枚の絵画の前に立ちつくしていた。もう長いこと___。
それは。
レンブラントの描いた「イェルサレムの滅亡を嘆くエレミア」
レンブラントは光と影の画家。
彼の絵は、人生を表しているのだと言う人もいるが、テリュースは、その予言者エレミアを「リア王」そのもののようだと感じていた。
その絵をはじめてみたのは、ロンドンのナショナルギャラリー。
聖ポール学院に入学してまだ間もない頃、授業をさぼって時間をもてあまし、さむ空の下、行くあてもないテリュースがお気に入りの場所のひとつにしていたのがナショナルギャラリーだった。
その場所でテリュースは、ひとつひとつの絵画の中に物語を感じて、その世界に没頭するのが好きだった。
灰色の毎日もその時だけは、忘れられる___。
そして時々、その絵画の前に置いてある長椅子に座って、物語に包まれ、うたた寝をすることもあった。幸い、係員も平日の昼間だからか、見逃してくれる。
我ながら呆れるのは、酒を飲んで大喧嘩をした翌日は、いつもよりなおさらそこへ行きたくなることだった。なぜか、二日酔いで回らない頭と傷だらけの体を癒してくれる気がして。
そんなある日。
ふらりとやってきたナショナルギャラリーのレンブラント展。いつもはアムステルダムの国立美術館にあるというその絵にテリュースは釘付けになった。
リア王だ__。
なぜか、そう思った。
エレミアは、旧約聖書の「エレミア記」に登場する古代ユダヤの予言者。
リア王とは関係ない。
しかし、そのレンブラントのエレミアを見て、リア王の悲しみと絶望がこちら側に迫ってくるようだとテリュースは思った。
ナショナルギャラリーには、シェイクスピアの戯曲の一場面を描いた絵画もたくさんあるのに、なぜか、レンブラントのその絵画が、テリュースにシェイクスピアを感じさせたのだった。
その時。
テリュースは突然、嵐に打たれたように、「リア王」の芝居を観てみたい、そんな思いにおそわれた。
絵画の中の物語ですら、自分をこれほど揺り動かすのだから、芝居の中のリア王ならどれほどなんだ?
その日その足で、テリュースはオールド・ヴィック劇場でやっていた「リア王」の芝居を観にやってきた。主演は、ランドル・エアトン。
ピアノにヴァイオリン、外国語、美術、哲学にポロ。
金に糸目をつけず、テリュースにさまざまな教養を与えるグランチェスター公リチャードなのに、なぜか、芝居とオペラを観ることは禁止していた。
そんなテリュースが、生まれてはじめてみるシェイクスピア劇。
座ったのは、1番安い天井桟敷席。ほとんど役者の頭頂部しかみえないような席だったが、テリュースは、すぐにリア王の芝居に夢中になった。
リア王エアトンの流れるような韻をふんだ台詞まわし、針一本落ちても気付きそうなほど張りつめた舞台と客席の空気感、役者たちの美しい声とそのオーラ、威風堂々した佇まい。
テリュースは、芝居の魅力にすっかり「イカれた」自分に気がついた。
そのレンブラントの「イェルサレムの滅亡を嘆くエレミア」が、NYのメトロポリタン美術館にやってきていると知ったのは、テリュースがロックスタウンから帰ってきた日だった。
NYのグランドセントラル駅に貼ってあったポスターには、メトロポリタン美術館のレンブラント展は、明日が最終日だとあった。
あと1日しかない。
レンブラント展は終わって、「イェルサレムの滅亡を嘆くエレミア」はアムステルダムに帰ってしまう。
テリュースは、自分が芝居を志すきっかけとなったその絵画が、今このNYにいることを運命だと感じていた。
エレミアに会わなければ、と。
そう、これはきっと、運命だ___。
次の日。
やってきたメトロポリタン美術館、その絵を前に、テリュースは、つい1時間ほど前に交わしたストラスフォード劇団の団長、ロバート・ハサウェイとのやりとりを思い出していた。
「テリュース、よく帰ってきた。もう大丈夫か?」
ロバートは、ノックをして部屋に入ってきたテリュースに椅子をすすめながら、風邪で休みをとっていた団員が復帰したかのようにごく自然な調子で尋ねた。しかし、口許には微笑をたたえてはいるが、目は笑ってはいない。
「はい。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。」
テリュースは短く答えて、ロバートの次の言葉を待った。じたばたしても仕方ない。
「実は。折り入って君に頼みたいことがあるんだ。」
そう言って、ロバートは、テリュースの前に1冊の台本を置いた。
薄いブルーのその台本には、「マイガール」と書いてある。
「ニックとも相談して、君にこの次回作で、スプリングガーデン劇場に行ってもらうことを決めたんだ。私は、この選択を、君の役者人生にとっても必ずや良い経験になると確信している。」
ニック・ホジキンは、ロバート・ハサウェイの共同経営者であり、ストラスフォード劇団の実質的な経営を担っている男だ。自身が偉大な役者でもあるロバートと違って、役者経験のないニックは経営面でしか物を考えない。経営のことしか頭にない。
「君も知っているように、スプリングガーデン劇場は、今、大変厳しい経営状態だ。このままでは、遠くない将来、この劇場を手離さざるをえなくなることを我々経営陣は恐れている。そこでなんとか今回、この戯曲で、起死回生のヒットを飛ばしたいと切実に思っているんだ。」
ロバートは、テリュースの目を正面から見据えた。
「テリュース、君も読んだらわかると思うが、この戯曲は新人作家のものだが、なかなかよく書けている。ニックも、君の実力とこの戯曲ならイケると太鼓判を押している。ぜひ君の力でスプリングガーデン劇場からロングランを飛ばして欲しい。」
ロバートの言葉を聞いて、テリュースは心の中で、
「ふざけんな。何がイケる、だ。演劇のことは何もわからないくせに!」
ニックに毒づいた。テリュースは、金儲け主義のニックが、入団当時から嫌いだった。
現在、ストラスフォード劇団は、3つの劇場を保有している。
スプリングガーデン劇場は、その中でも客席数が480席と1番小さく、他の劇場、つまりストラスフォードの名前を冠するストラスフォード劇場やニューロイヤルシェイクスピア劇場に比べ、かなり見劣りがする。
しかも、そこではたいてい、シェイクスピアではなく、現代劇やコメディが演じられていて、格下の扱いを受けているのだ。
そして多くの場合、そこに出演する役者たちは、ストラスフォード劇場やニューロイヤルシェイクスピア劇場の芝居のオーディションに落ちた若い役者たちなのだった。
「今回は主役のカイル・レイン役についてはオーディションはせず、我々の一存で君に決定した。またその他のキャストについてはすでにオーディションも終わり、それぞれ練習に入っているからそのつもりで。」
本来、ストラスフォードは、役者の知名度よりも実力を重視してキャストを決める劇団だ。オーディションもなしに主役キャストを決めるのはずいぶん珍しいことだった。
俺に選択の自由はない。
嫌なら辞めろ、ということか。
現代劇。
無名の新人の戯曲。
そしてスプリングガーデン劇場__。
しかも、ブロードウェイの街全体が、シェイクスピア没後300年祭で賑わっている今、そんな現代劇をひっさげて、スプリングガーデン劇場へ、と言うのは、テリュースにとって、実質的な死刑宣告に等しかった。
マイガールだって?そんな芝居、聞いたことがないぜ。
カッとして席を立ちそうになる自分を必死になだめ、テリュースは
「わかりました。」
とだけ答えて、台本を手に静かに立ち上がった。自業自得なんだが、予想以上に厳しい「判決」だな。テリュースは心の中で呟いた。
「あとのことはスプリングガーデン劇場の劇場プロデューサー、ブライアンがすべて取り仕切る。なにかあったら、今後は彼に聞いてくれ。彼には、3日後から君が合流すると伝えておく。頼んだぞ、テリュース。」
ロバートも立ち上がって、テリュースの右手を自分の両手で包み込むように力強く握った。
「全力を尽くします。」
そう言って、テリュースは部屋をあとにした。
自分ではその言葉が、いささかわざとらしく響いたように聞こえたが、ロバートはどう感じたか。
「イェルサレムの滅亡を嘆くエレミア」を前に物思いにふけっていたテリュースは、メトロポリタン美術館の閉館時間が迫っていることに気づいて我にかえった。
もう少しエレミアと話していたいと思ったが、無情にもあと30分で閉まってしまう。
またお別れだ、エレミア。励ましてくれるように俺を待っていてくれて感謝する。
今度お前と会う時も俺はやっぱり芝居をやっていたい。できれば、シェイクスピアを。
みていてくれ、エレミア。俺は今度の芝居、全力を尽くしてみせる。
力強くそう言って、名残惜しそうに美術館をあとにするテリュースの後ろ姿があった。
次の話は
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