『ホールドアップ』
低くかすれた男の声が、薄いカミソリの刃先のようにぞっとする感じがして、キャンディはごくりと唾を飲み込んだ。
__強盗!
素直に従うべきだと本能が囁く。キャンディは言われた通りに、手にしていたバッグごとゆっくりと両手を高く掲げ、降参を示した。
男は、素早く服の上から身体検査をし、カバンの中に武器がないのを確かめる。
「よし、そのまま、ゆっくり振り返れ。」
キャンディはそのままの姿勢で、声の主の方を向く。すぐ目の前に立っていたのは、キャンディの知る男性たちとは全く違う、危険な雰囲気の漂う男だった。
年はアルバートより若いだろうか。
引き締まった長身に浅黒く焼けた肌、柔らかくウェーブした長い黒髪は、うなじでひとつに結び、銃を右手に構えている。
印象的なのは、その黒曜石のように黒い瞳。ひたっと見据えられると背筋がぞくっとするような殺気がある。
「・・・・・。」
男は、煙るような黒い瞳でじっとキャンディの顔を覗き込んだ後、次の瞬間、ふっと表情を和らげた。
「・・・驚かしてすまなかった。ケビンを助けてくれたそうだな。礼を言う。」
男が手にしていた銃を腰のホルダーに戻したのを合図のように、物陰に隠れていた5人の男の子がわーっと歓声を上げながら飛び出してきた。黒い肌の子もいれば、浅黒い肌の子もいる。その中に先刻の男の子も混じっていて、どうやらその子が、ケビンと言うらしい。
「ねぇちゃん。さっきは助けてくれてありがとな。お陰でほらこの通り。」
ケビンの手には、宝石がちりばめられた小さなバッグ。
「もしかして・・・、そのバッグって・・・、さっきのマダムの物なの?」
キャンディは唖然とする。
「そうさ、今日も俺たちだけで上手くスッたんだぜ。すげーだろ。」
「宝石がいっぱい付いているし、きっと高く売れるはずさ!」
「きれいだなー、このバッグ。」
彼らはキャンディを取り囲み、まったく悪びれる様子もなく、キラキラした目で誇らしげにバッグを見ている。
どうやら彼らは、いつも子供たちだけで、スリを働いているようだ。先ほどの爆竹も捕まってしまったケビンを助ける為に、仲間の誰かが投げ込んだのだろう。
キャンディは、自分がスリの手助けをしてしまったことにも、こんな小さな子供たちがスリを働いていることにもショックを受けてしまう。
子供たちは、罪の意識がないんだわ。大人がちゃんと教えてあげなければ。
そんなことを思うキャンディの心の中で、別の声が響く__。
自分だって、ポニーの家で拾われていなかったら?
アードレー家の養女になっていなかったら?
今頃何をして生きていたかわからないんじゃないの?
偉そうなことをいう資格はないかもしれないわ。でも、それでもこの子たちのためにならない__。
キャンディは、黒髪の男を見上げた。
「あなたが、親代わり?盗賊団のリーダーなの?」
「いや。ケビンたちには親もいるし、俺は盗賊団を率いているわけでもない。」
男はそっけなく答える。
「だから、自分には関係ない、子供たちが盗みをすることを止めないってこと?」
キャンディの問いかけに、男の黒い瞳が暗い炎を帯びる。
「そんなキレイな服で身を飾るあんたのようなお嬢様にはわからねえだろうが、俺たちは生きていくために、稼げる仕事をやるだけだ。正しいだの、正しくねえだの、そんな正義感は俺たちには必要ない。世の中のことを何も知らねぇくせに偉そうに言うな!」
男は、鋭く吐き捨てた。
偉そうなことを言う気はないわ。
「でも・・・。」
それでもキャンディが言い返そうとした時、さっき入ってきたドアがバタンと荒々しく開いた。
「大変だ、レオン。取引の最中にいきなり撃ってきやがった。」
息を切らした男が駆け込んでくる。目付きが鋭く、お世辞にも紳士とは言えない風体。日焼けした肌、汚れて、汗がにじんだシャツ、ところどころ破れたズボン。シャツをまくった腕には刺青が見えている。
「誰か撃たれたのか?」
レオンと呼ばれた男の冷静な声。
「ジェフが足をやられた。今担架に乗せてこっちへ向かっている。幸い、他にはケガをしたヤツはいないが・・・。チクショー、騙されて不意をつかれたんだ。」
「わかった、その話は後で聞く。ケビン、リカルド先生を呼んでこい!」
レオンがピシリと言うと、
「了解!すぐ呼んでくる。」
慣れたことなのか、それほど動揺もせず、ケビンとその仲間の子供たちが飛び出して行く。
すると、その後ろ姿と入れ替わるように、急ごしらえの担架に乗せられた男が運び込まれてきた。
担架に寝かされた男は、左足を押さえ、あぶら汗を流して呻いている。取り囲んでいるのは、街で声をかけられたら震え上がりそうな強面の集団。
「ジェフ、今、リカルド先生を呼びに行かせた。すぐに来てくれるから、もう少し頑張ってくれ。」
怪我人にそう声をかけた後、レオンが奥の壁のある1点を押すと、驚いたことに隠し部屋へ続く秘密の通路が現れた。
奥に部屋があったんだわ!
やはり、どうみても、彼らは何かを隠しているに違いないようだった。
かかわると危険。この隙に逃げるべきだとも一瞬考えたキャンディだが、怪我をした男が気になってその考えを頭の隅に追いやってしまう。
一刻でも早く手当てをしなくちゃ。そんな気持ちで彼らの後を追う。
男たちは通路を抜け、奥の部屋へ担架を運び込むと、テーブルの上にあった物を素早く手で床に落とし、ジェフをそこに寝かした。
部屋の中は、古くなってひび割れた角材や、錆びた機械類が無造作に散らばり、壁には銃身の長い銃が何丁か、かかっている。部屋中に火薬の匂いが立ち込め、積み上げられた大量の木箱には、『M1903』『M1911』、『マキシム』の文字。
キャンディが、寝かされた男の傍らに寄ると、撃たれた太ももからズボンの生地越しに大量の血液がドクドクと流れ出ているのがわかった。
早く止血をしなくちゃ。このままだと出血多量で危ないわ。
「誰か、ベルトを貸して頂戴。」
キャンディは、男たちのひとりからベルトを借りると、怪我をした男に優しく声をかけた。
「少し痛いけど、我慢してね。」
彼女の言葉に、苦痛にきつく閉じられていた男の瞼がゆっくりと開き、キャンディを見ると安心したように頷いた。レオンや周りの男たちもその様子をじっと見つめる。
キャンディは、いつもこの瞬間に、看護師になってよかった、と感じるのだった。少しでも誰かの役に立ちたい。安心させてあげたい。苦痛を少しでも取り除いてあげたい。恐怖を和らげてあげたい、と。
キャンディは、ベルトを使って素早く止血すると、次にカバンの中からメスやハサミの入ったポーチを取り出し、今度はレオンに声をかけた。
「まずは、傷を洗浄しなくちゃいけないわ。アルコールと清潔なお水を持ってきて。」
本来なら、見なれぬ女の指示に素直に従うことなどなさそうなレオンも、キャンディの凛とした対応に何かを感じたのか、おとなしく従う。
「これでいいか?」
レオンがアルコールの瓶をキャンディに見せる。
「ええ。それで十分。まず布を切って、患部を洗浄するから。」
キャンディは、男の脈をはかり、気道を確保すると、メディカルシザーでズボンを素早く切り裂き、水で血を洗い流してそっと患部を調べる。
幸いなことに弾丸は太ももを通り抜けていて、中に「弾丸」はない。
「じゃあ、患部を洗浄するわ。ちょっと痛いけど、すぐ終わるから。ジェフが動かないようにみんなで押さえていてね。」
キャンディは、強面の男たちにテキパキと指示を出す。
ジェフは、屈強な男たちに押さえつけられ、口に布を押し込められて、ぴくりとも動けない。キャンディが患部に触ると、フグーフグーと声にならない叫び声を漏らす。
「さぁ、終わったわ。後は縫い合わせるだけ。」
そこに、傷口の洗浄が終わるのを待っていたかのようにリカルド先生が子供たちに腕を引っ張られながら現れた。太ったリカルド先生は、ゼエハアと息をしている。
「やぁやぁ、遅くなってすまない。」
すぐにリカルド先生は、患者の傷口を点検し、側にいるキャンディを見ると、すべてを理解したように満足げにうなづいた。そして、手慣れた様子で、傷口を縫ってふさぐ。
「お嬢さん。見事な仕事っぷりじゃな。看護師がみんなあんたのようにやってくれたら、わしら医者は助かるのぉ。」
汚れた手を桶に汲んであった水で洗いながら、リカルド先生はキャンディにニッコリ微笑みかけた。そして、リオンには、この薬を飲ませるようにと言うと、もうひとり怪我人がいるからとバタバタと帰っていった。
その姿がなくなると強面の男たちからキャンディに向けて自然と称賛の拍手がおこった。
仲間を救ってくれたキャンディに、男たちからの感謝の眼差しが注がれる。
「キレイな服が台無しになっちまったな。顔にも血がついている。」
レオンが、キャンディを見下ろし、頬に飛び散った血を自分の手のひらで拭ってくれる。
キャンディは、やっとひと息ついて自分の洋服を見ると、至るところがジェフの血で真っ赤に染まっていた。
「いいわ、そんなこと。洗えばいいんだし。」
お出かけ用の洋服を汚したことなど気にしない。それよりもジェフが無事であったことを誰よりも喜ぶキャンディだった。
「すごいな、バンビーナ。見直したぜ。お嬢様がいつ、そんな技を身につけたんだ?」
「生きて行くためには、稼げる仕事につかないといけないからね。私、看護師なの。」
キャンディが、レオンにバチンとウィンクして、得意げな笑顔を見せた。
「私の名前はバンビーナじゃないわ。キャンディス・ホワイト・アードレーよ。キャンディって呼んで。」
アードレー?
「アードレーって、あのアードレーじゃ、ないよな?」
レオンが、キャンディの言葉につまづく。
「アードレーに、『あの』も『この』もないと思うけど、アードレーはアードレーよ。あ、付け加えておくと、わたし、ポニーの家っていう孤児院で育ったの。だから、お嬢様なんかじゃないから。」
「へぇ、そうなのか。俺は、レオン・ビアンカリエリ。イタリア移民の子で、スラム街で育った。こいつらは、みんな俺の仕事仲間だ。」
さっきまでのピリピリとした雰囲気が嘘のように、レオンも屈託のない笑顔を見せた。
後に。
この日の出会いは、キャンディの運命を大きく動かすことになる。
そんな一件があって間もなく、キャンディは、シカゴ社交界の女王、ダイアナ・パーマーから自分の主催するパーティへの招待状を受け取ったのだ。
しかも、全米看護師協会のシカゴ支部長から、自らも参加するので、キャンディス嬢もマダム・パーマーのパーティへ来て欲しいとの誘いつきで。
基本的に、シカゴ社交界は閉鎖的で、よそ者や出自の怪しい新参者は、受け入れない暗黙のルールがある。しかし、名門アードレーに、そのルールは少しの影も落とさない。アードレー家は当然のごとく、シカゴ社交界のパーティの招待客に常にその名をつらねるのだが、今回のように半強制的に参加を誘うことはほとんどない。
キャンディは訝しげに思いながらも、全米看護師協会の支部長からの直々の誘いを断れず、参加することにしたのだった。
その日。
シカゴ社交界の女王、ダイアナ・パーマーのパーティに、アードレー家の若き当主ウィリアム・アルバート・アードレーとその養女、キャンディス・ホワイト・アードレーの姿があった。
パフスリーブの袖のサファイアンブルーのドレスに、アップした金髪を真珠があしらわれた同じ色のコームで彩るキャンディをアルバートが優しくエスコートする。
パーティー会場となったのは、古城のようなマダム・パーマーの屋敷。
出迎えたマダム・パーマー、その人があの日、ケビンにバッグをすられたマダムであると理解するのに、キャンディは1秒もかからなかった。
『あの時のマダムだわ。』
しかし、マダム・パーマーは、キャンディに気づいていないようで、にこやかにアードレー家の当主とその養女を迎える。
艶やかな『はじめまして』の挨拶とともに。
キャンディは、相手が気づいていないことを理解し、その場は無難な挨拶で返したのだったが。
わざわざパーティで会おうと言っていた全米看護師協会の支部長の姿がどこにもないのが、キャンディには訝しく思えるのだった。
会場に来て小一時間が過ぎた頃、退屈しのぎにパウダールームに行こうと思いついたキャンディは部屋を出たところで、突然パーティーの主催者であるマダム・パーマーに声をかけられた。
「アードレーのお嬢様、ぜひこちらへいらして。有名な宝石商に素晴らしい宝石を見せていただくところですのよ。」
以前スリにあったあの時と違って、随分柔らかな雰囲気のマダム・パーマー。今日は高圧的なところは微塵もない。
「あ、でも・・・、私。」
「さぁ、どうぞ。遠慮なさらず、こちらへいらして。」
断ろうとするキャンディの腕をマダム・パーマーは半ば強制的に引っ張り、大広間とは別の部屋へと誘う。
あまりの強引さにキャンディは断るきっかけを失い、仕方なくついていく。
案内されたのは、吹き抜けのガラスの天井と大きな窓から燦々と眩しい太陽が差し込むサンルームだった。窓辺には、グランドピアノが置いてある。
部屋の中央には奥の長いテーブルがあり、すでに大勢のご婦人方が勢ぞろいし、賑やかにおしゃべりをしながらお茶を飲んでいた。
ミセス・パーマーは、上座の自分の席の隣にキャンディを座らせるとテーブルの上にあったクリスタルグラスをフォークで優しく鳴らす。
乾いたキンという音が数回して、その場が静かになった。
「さぁ、みなさま、今日は宝石商のミスター・バトラーにご自慢の宝石をお持ちいただいております。目の保養をいたしましょう。」
マダム・パーマーが声をかけると、恰幅の良い金髪の男性が弾かれたように立ち上がり、手にしていた宝石箱を開けた。
中から、紺碧の宝石をあしらったペンダントが姿をあらわす。鮮やかで深い海の色。
ご婦人方からさざ波のように、感嘆のため息が上がるのを満足げに見ながら、ミセス・パーマーがキャンディに艶然と微笑んだ。
「ねぇ、アードレーのお嬢様、どう思われまして?」
キャンディは、宝石のことはよくわらないと思いながらも、思ったことを口にした。
「とても美しいサファイアだと思います。」
すると。
その場にいた人々が目配せをして、微妙な空気が流れる。
「まぁ、アードレーのお嬢様、これはサファイアではなくて、貴重なブルーダイヤモンドですのよ。ご存知ないのかしら?」
嘲るような忍び笑いが微かにおこる。
「アードレー家のみなさまは、普段宝石を身につけられていらっしゃらないの?」
ご婦人のひとりがわざとらしくキャンディに問う。
「まぁ、クリスティ、この方、今はアードレーの養女でいらっしゃいますけど、孤児院育ちだそうですもの。ご存知なくて当然ですわ。」
そこですぐに__。
キャンディは、マダム・パーマーの狙いを理解した。
来るはずのない招待状が来たのも、わざわざ全米看護師協会のシカゴ支部長から、パーティに参加して欲しいと誘いがあったのもたぶん、このためだ。
全てはキャンディに恥をかかせるため。あの日の仕返しをするためなのだ。
「それはそうと、みなさま。せっかくピアノのあるお部屋にいることですし、どなたかの演奏を聴きたいと思いませんこと?」
マダム・パーマーは獲物を狙うハンターのようにキャンディを見据えた。
「そうだわ。アードレー家のご令嬢ならピアノはお得意でしょう?何でもいいわ、1曲弾いてくださいな。」
今しがた、孤児だからと言ったその口で、またアードレーの令嬢だと言い放つ。
「まぁ、素敵。ぜひ、アードレー家のご令嬢のピアノをお聴かせいただきたいわ。」
示しあわせたように、周りにいる人々が口をそろえてキャンディにピアノを弾くように言い出す。
そんな__。
ピアノは得意ではないし、こんな耳の肥えた人たちの前で弾くなんて、恥をかくに決まっている。
「・・・いえ、皆様の前でご披露するような腕前ではありませんし・・・・。」
口ごもるキャンディの言葉を遮るようにマダム・パーマーが、一段と声を張り上げる。
「曲は、なんでもよろしいのよ。このスタインウェイは、今日のために調律させたばかりですから、きっと良い音色が出るはずですわ。さあ、ぜひ。」
サンルーム中に響く、有無を言わせぬ声。
その時__。
「その前に。よろしければ、私に演奏させていただけませんか?」
開いたドアの方から声がして、部屋に入ってきたのは、キャンディも見覚えのある男性だった。
「まぁ、珍しい。ビアンカリエリ伯爵よ。」
マダムたちが口々に、嬉しげな感嘆の言葉をもらす。武器商人として、良くも悪くもシカゴ社交界で名前を轟かすその男。
レオン!
あの日のレオンとは違う、高貴な青みがかった黒の正装。ご婦人方に投げかける甘く魅惑的な微笑み。
ただ、その鋭い黒曜石の瞳だけは、あの日のままに見える。
レオン?レオンよね?
伯爵って、あなた貴族だったの?
でも__、前と雰囲気が違うわ。
キャンディは問いかけるような視線をレオンに投げるが、レオンはキャンディの方をチラリとも見ない。
「まぁ、伯爵がピアノを弾いてくださるなんて、光栄ですわ。ぜひ、お聴かせくださいませ。」
マダム・パーマーは相好を崩す。周りにいたご婦人方もレオンの申し出に、さざめき、期待に満ちた囁きを漏らした。
すると彼は満足気にうなづき、そのままピアノのそばに歩いて行く。そして、そっとピアノに左手をおき、テーブルについているマダムたちに向け、 優雅に一礼した。
「では。心を込めて。」
パッと上着のすそを後ろにはらい、椅子に座ると、睫毛をふせて集中するようにしばし時を待つ。
やがて、一瞬の静寂の後、レオンの節ばった長い指が、美しい旋律を紡ぎはじめた。
最初の主題を弾き終えただけで、その場にいる人々は彼が並の腕前でないことを理解する。
「ほぉ・・・。」
「バッハのシャコンヌだわ・・・。」
囁きが漏れる。
無駄な装飾をそぎ落とし、設計図のように緻密で、計算しつくされたバッハ。それでいて、匂い立つような華やかな音の粒をちりばめていて__。
右手の動きを追いかけるように左手が動き、主題の重なりが波のように押し寄せる。
最初は、モール(短調)に。
そしてだんだんと激しく荘厳なドゥア(長調)へと音の階段を昇っていく。その旋律は、一気にその場の空間を深淵なる神の世界へと誘うようだ。
誰もが荘厳な音の世界に引きずり込まれ、酔いしれていた。
と、その時__。
豊かなそのピアノの音に混じって、耳障りな金属音が聞こえ__。
突然、音が止まった。
しんとした静寂が訪れ。
「・・・弦が切れたようだ。」
レオンは、ピアノを弾く指を止め、誰に言うともなく、静かに呟いた。
「・・・まぁ。失礼しました。すぐに調律師を・・・。」
マダム・パーマーが言いかけるのを伯爵が、優しく、しかしきっぱりと遮った。
「神が、我々にピアノを楽しむよりも他のことをするようにと示唆しているのかもしれませんね。それよりも、ご婦人方、ヨーロッパの戦局について私が仕入れた情報をお話しようかと思うのですが、いかがでしょう?」
「まぁ、素敵。大戦にもお詳しい伯爵のお話、ぜひうかがいたいですわ。」
「そうですわ。伯爵の情報は、誰よりも早くて正確ですもの。」
口々に賛同の声があがる。
その言葉に、レオンは当たり前のようにマダム・パーマーの隣に座っていたキャンディに、席を変わってくれるように言い、彼女が席を立つとそこへ着席した。
周りのご婦人方もレオンに夢中で、もうキャンディに興味はなくなっている。
チャンス!
この隙にミセス・パーマーから逃げなくちゃ。
キャンディはさりげなくその場をはなれ、そのまま外の空気を吸おうと庭に面したバルコニーに出ることにした。
「ラッキーだったわ。なんだかんだ言っても、私ってついてるのね。」
バルコニーに出るとキャンディは大きく深呼吸をする。バルコニーの向こうには、咲き乱れる花々。
やっぱり、外の空気が1番だわ。パーティーってこりごり。
こんなことをしているより、ハッピー診療所に帰ってしたいことがあるのに。
そんなことをぼんやりと考えながらキャンディは、心地よい風に吹かれる。
それからしばらくして__。
「よぉ、バンビーナ。また会ったな。」
バルコニーにもたれて、風に吹かれていたキャンディは、突然、すぐ背後から声をかけられても驚かなかった。聞き覚えのある少しかすれた声。キャンディは、なぜか、レオンがやってくるような予感がしていたのだ。
キャンディが振り返ってにっこりすると、レオンは『よぉ』と片手を挙げた。先刻の礼儀正しい雰囲気はそこにはない。キャンディが最初に会った時のレオンだ。
「やっぱり、私に気づいていたのね。こっちを見ようともしないし、雰囲気も前と全然違うし、別人かともおもっちゃったわ。」
「そうだろ?気になって仕方なかったんじゃねーのか?俺のこと。『あら?レオンじゃないの?なんで私のこと気付かないのかしら?』ってな。そう思わせようと、わざと無視したんだ。作戦成功。」
レオンはいたずらっ子のように笑って、バルコニーの隅に置いてあるベンチにどっかり座ると、こっちへこいよ、というようにキャンディを手招きした。
キャンディは素直に隣に座る。
「それより、さっきは危なかったな。俺が助け船を出さなかったら、何が何でもあのおばちゃんにピアノを弾かされていたぜ。バンビーナ、何か、あのおばちゃんの恨みを買うようなことをしたんじゃないのか?」
レオンがキャンディの顔を覗き込む。
近くで見るレオンは、かなりロマンチックな相貌だ。ギリシャ彫刻のような彫りの深い顔立ち、浅黒く焼けた肌と引き締まった頬。黒い髪と対になった濡れたような黒い瞳。微笑みの下には、どことなく危険な香りを感じさせて、それが、逆に彼の魅力になっている。
今まで会った誰とも違うとキャンディは思う。こんな人、見たことない。でもなぜか前から知っているように話しやすい。
「・・・ほら、ケビンが盗んだバッグの持ち主だけど・・・、それがあのマダム・パーマーだったってこと。私はここへ来るまで知らなかったのに、相手は私に気づいていたのね。わざわざ招待状を送ってくるくらいだもの、計画的に嫌がらせをしようとしたのかもしれないわ。」
「・・・なるほど、さっきの執拗な嫌がらせは、そういうことだったのか。バンビーナにはまったく関係ねえことなのに、気の毒なことをしちまったな。まぁ、今後は、あのおばちゃんから、俺が守ってやるから安心しな。」
本気なのか、冗談なのかわからない調子のレオン。
「ねぇ、レオン。私、キャンディって名前があるのに、なんでバンビーナって呼ぶのよ。」
キャンディが軽く口をとがらせる。
バンビーナとはイタリア語で『かわい子ちゃん』を意味する。我が子や恋人に呼びかける言葉だとキャンディも耳にしたことがある。
「ああ、それか。俺は昔から、女を名前で呼ばないと決めている。名前を呼ぶと情がうつるだろ?」
「情がうつると・・・ダメなの?」
「俺の仕事は危険だからな。いつなんどきどんなことがおこるかわからない。好きな女がいたら何かと面倒になる。」
「それって、悲しませたくないからってこと?」
「それもある。」
「それも?」
「好きな女の存在は、俺のアキレス、・・・弱味になっちまうだろ。」
「つまり、弱味を持ちたくないってことなのなのね。」
「ま、そいいうことだ。俺には特別な女は必要ない。後腐れのない熱い関係の女なら大歓迎だけどな。」
レオンは、そう言ってニヤリと笑う。
「そういうものかしら。どんな風に呼んでいても、好きになる時はなると思うけど。」
キャンディはそう言ってから、ふと思い出してしまう。
思い出の中だけにある懐かしい呼びかけ。
『ターザンそばかす__。』
高くもなく低くもない、深く甘いテリィのバリトンで。
もう二度と・・・そう呼びかけられることはないんだ__。
そう思うとズキンと胸の奥が痛くなった。
そんな気持ちを振り払うようにキャンディは、わざと明るい声を出す。
「そうだわ。レオン、ピアノがすごく上手いのね。見直しちゃった。」
「だろ。俺はたいてい何でも器用にこなすからな。」
「それに、あなたが先にピアノを弾いてくれたおかげで、運良く弦が切れて、本当にラッキーだったわ。神様に感謝しなくちゃ。」
一瞬の沈黙が流れて__。
「・・・バンビーナ、もしかして・・・ピアノの弦が切れたのを、偶然だと思っているのか?」
レオンが呆れたようにまじまじとキャンディの顔を見つめる。
「えっ・・・、違うの?」
レオンがやれやれと言うようにため息をついた。
「当たり前だろ。ピアノの弦なんて、そうそう簡単に切れるわけないだろうが。あれは、俺がちょいと細工をして・・・。」
「あっ!あの時ね!左手をピアノにかけて、お辞儀をした時。」
「なんだ、わかってるじゃねえか。ま、細工はあの時だけじゃねえけどな。」
そう言って、ニヤリと微笑む。
「・・・もしかして、あんなに長い曲を弾いたのにも意味がある?」
「そりゃあ、そうだろ。あんな曲、誰が好き好んで弾くかよ。長い曲じゃねえとその間に細工しにくいだろーが。あのバッハの『シャコンヌ』は流れが変わる度にちょちょいと作業しやすいと思って選んだんだ。」
「そう言うことだったのね・・・。私ってなんて強運の持ち主なんだろうって、勘違いしていたわ。」
キャンディが、はぁと大きな息を吐くと、
「あぶねー。ここでバンビーナと話さなかったら、ラッキーな偶然の出来事にされて、俺の思いやりが全てパーになるところだった。」
本気とも冗談ともつかない様子でレオンが呟く。
「私のためにそんなことをしてくれるなんて・・・、想像もしていなかったわ。あなたは恩人ね。」
レオンはキャンディの言葉にまんざらでもないと言うような表情を浮かべた。
「ねぇ、レオン。あなたって、何者?あんなにピアノがうまいんだもの、スラム街で育ったっていうのは、嘘なんでしょう?うっかり信じそうになっちゃったわ。」
するとその言葉に、レオンがわかってねーな、と言うように肩をすくめる。
「スラムで育ったと言うのは、嘘じゃない。イタリア移民だった両親が早くに亡くなって、俺を拾ってくれた詐欺師のじいさんが、よくピアノを弾いてたんだ。俺はそれを耳で聴いて覚えた。じいさんが教えてくれることもあったけどな。」
「耳で聴いて?」
「ああ。楽譜はほとんど読めない。」
あの曲を?すごいわ。
レオンは本当に正体不明だ。どれが本当でどれが嘘なのか、さっぱりわからなくなる。
「じゃあ、ビアンカリエリ伯爵という貴族だって言うのは?こういうパーティにはよく来るの?」
「・・・そんなの、嘘に決まっているだろうが。だけど、そう名乗った方がなにかと都合がいいんだな、これが。俺って見た目がいいからそう言われればそんな風に見えるだろ?」
ズルそうにニヤリと笑う、レオン。
「それに、俺はこんなところへは滅多にこない。今日ここへ来たのは、アードレー家のお嬢様に会えるからだ。」
「嘘ばっか。」
「嘘じゃねえし。名門アードレー家の養女で看護師。どんな女なのか、もっと知りたくなった。だけど、俺には惚れるなよ、バンビーナ。俺はどんな女にも本気にはならない。」
キャンディがしかめ面をして『ないない』と言うように手をふると、レオンがちぇっと舌打ちをした。
「それなら、マダムたちがささやいていた、あなたが武器商人だって言うのも嘘なの?」
「いや、それは本当だ。悪魔の商人、レオン・ビアンカリエリとは俺のこと。金のためなら、良心をも売り渡す。・・・それも聞いてねえか?」
わはははっと愉快そうに笑うとレオンは次の瞬間、バルコニーへと大きく開いたフレンチ窓の奧を見て、ふっと声をひそめた。
「バンビーナの養父さんが、心配してこっちにやってくるぜ。悪い男に引っ掛かってないか、心配してるんだろう。なぁ、さっきのお礼に、あんたの養父さんとやら・・・、若くてイケメンの。俺に紹介してくれよ。」
キャンディはレオンがわざわざアルバートに紹介を求める理由がわからなかった。
「いいけど。どうしてアルバートさんを?経済界の大物なら他にもいっぱいいるわ。」
「ここにいる外見だけ飾り立てている連中の中で、怖いのはあんたの養父だけだ。挨拶しておかないとな。」
怖い?
アルバートへの評価の言葉で1番似つかわしくない言葉。
「アルバートさんは、すっごく優しいわよ。誠実だし、いつもみんなのことを考えていて、怖いだなんて誰も言わないわ。」
「・・・だから怖いんだよ。」
レオンはニヤリと微笑んだ。
「いいわ。紹介してあげる。でもこの前のことはアルバートさんには絶対に秘密よ。心配かけたくないから。」
キャンディがレオンに釘をさす。
その直後、柔らかな声がした。
「ここにいたのかい、キャンディ。なかなか戻ってこないから心配したよ。」
アルバートがレオンに軽く会釈をし、キャンディを見つめる。アルバートがいるとそれだけでその場が優しい風に包まれるような気がすると彼女は思う。
キャンディはすぐに、アルバートに大丈夫、心配いらないわと言うように笑ってみせた。
「アルバートさん、紹介するわ。こちら、レオン・ビアンカリエリ伯爵。さっき、伯爵に助けていただいたの。危なくもうちょっとで、『ピアノ演奏をさせられるの刑』になるところだったのよ。」
「なんだい、それ?」
アルバートが吹き出しそうになるのを必死にこらえる。
「初めまして。レオン・ビアンカリエリと申します。あなたのセントラルパシフィック買収の一件を耳にして、ずっとお会いしたいと思っておりました。お会いできて嬉しく思います。」
レオンが礼儀正しく握手を求める。
そして、次にアルバートが自己紹介をした後、レオンは尋ねた。
「娘さんをダンスにお誘いしても?」
アルバートは、それにはすぐに答えず、キャンディにどうなんだい?と言うように瞳で優しく問いかける。
と、次の刹那。
レオンが長身をかがめ、キャンディの耳に触れるほど近く唇を寄せてささやいた。
「俺は、バンビーナの恩人だよな?」
その瞬間、後ろで束ねたレオンの黒髪が落ちてきて、キャンディのうなじをサラリと撫でる。
そのレオンの振る舞いに、アルバートがハッとしたように顔色を揺らす。
キャンディはアルバートのそれに気付かない。
「いいわ、恩人さん。喜んでダンスのお相手をするわ。」
キャンディがクスリと笑って承諾すると、レオンは視線をアルバートにうつし、鋭利な刃物のようなその瞳で、アルバートの瞳の奥を探るようにひたとのぞきこむ。
その間、数秒。
レオンは何かを感じたように口の端に皮肉な薄笑いを浮かべたが、すぐに何事もなかったように、キャンディに腕を差し出した。キャンディがそっと手を添える。
笑顔で見つめあうキャンディとレオン。
レオンは、アルバートに礼儀正しく会釈をした後、キャンディを伴って、ゆっくりとダンスホールへと向かう。
そのふたりの後ろ姿を見つめながら、アルバートの瞳には、痛みを感じているかのような色が浮かんでいた。
レオン・ビアンカリエリ伯爵。
悪魔の商人と呼ばれ、汚いやり方も辞さないその手腕で、シカゴ経済界をかけのぼる餓えた狼のようなあの男。
どんな人間とも手を組む反面、真に誰ともなじまず、誰にも心を許さず、孤高な心を抱え。
一見、正反対に見えるふたりだが___。
あの男、どことなくテリュース・グレアムに似ている。
『キャンディ、君は____。』
僕の役目は、養父として、キャンディ、君の幸せを願うこと。
なのに、僕は一体どうしたと言うんだ。キャンディに次の恋が訪れるのなら、よいことじゃあないか。
ふたりの後ろ姿を見つめるアルバートは、なぜ自分の心がこんなにもざわつくのか、わからないでいた。
『もしかして・・・、僕はキャンディのことを___?・・・バカな・・・。』
いつも読んでくださってありがとうございます。
今回は、テリィも出ず、アルバートさんも少しだけ。オリジナルキャラだけしか出てこないので、自信が持てず、何度も書き直しをしておりました。
1ヶ月に1話か2話と言っておきながら、申し訳ありません。
アルバートさんは、昔からキャンディに男性として愛を感じていた、と言うよりきっと何かきっかけがあって、自分の気持ちに気づいたのでは?と考えました。記憶を失っていた時かもしれませんが、私はレオンとの出会いといたしました。
テリィの雰囲気を持つ男性とキャンディを目の当たりにして。
これからも、趣味のひとつとして、私生活もしっかり充実させつつ、「好きな妄想時間」でぼちぼち書いていきたいと思っております。
いつもみなさまに感謝しております。ジゼル
次のお話は
↓
永遠のジュリエットvol.16〈キャンディキャンディ二次小説〉
ダンスホールに向かう楽しげなキャンディとレオン、ふたりの後ろ姿を見つめながら、針のように鋭い痛みが、アルバートの身体の中をかけめ...
にほんブログ村
この記事のURLをコピーする
ABOUT ME