冬はまだ始まったばかりだというのに、ブロードウェイは秋の衣を脱ぎ捨て、純白の雪の衣裳をまとうようにたたずんでいる、そんな寒い日だった。昨日までの暖かさが嘘のような。
ブロードウェイからそれほど遠くない
ホテル『ザ・ヴァルハラ』
元は迎賓館だった建物をオーナーが改築した豪華なホテルに、その日正式に婚約を発表するストラスフォード劇団のテリュース・グレアムとスザナ・マーロウの姿があった。
通常は決して許可がおりないその格式高いホテルの一角で、宿泊客をそのエリアからすべて排除して、ふたりのポートレート撮影が行われていた。その写真は、テリュース・グレアムとスザナ・マーロウの婚約を各マスコミに発表するためのもの。
「次は優しく見つめあってください。・・スザナさんはもう少し顔を上げて。・・そんな感じで。」
椅子も車椅子も使用したくないスザナを配慮して、「階段」の段差を使っての様々なポージング。後ろの荘厳な大理石のレリーフがまるで舞台のように映えている。カメラマンは事前に、「絵になるポートレートに」と難しい注文を受けていた。
そのカメラマンを指名したのはスザナ。ストラスフォード劇団と契約している旧知のカメラマンだった。彼に撮ってもらうといつも美しい表情を切り取ってくれるとスザナは感じているからだ。
今日は誰よりも、何よりも、1番美しく撮影して欲しい。テリュースの瞳に写る自分が美しいと思われるのと同じくらい、世界中の人々から、隣に並ぶテリィにふさわしいと認められたかった。決してテリィが、同情から側にいてくれるのではないと証明したい、そんな気持ちだった。
そして。
そのポートレート撮影の後は、ストラスフォード劇団が選んだ新聞社と雑誌社数社のインタビューが予定されている。
なお共同記者会見はスザナの意向で行われず、その数社以外のマスコミへの婚約報告は、ストラスフォード劇団から提供されるふたりのポートレートと連名のコメントのみと決まっていた。
しかし、インタビューを許されたその数社も写真撮影は一切禁止され、婚約の記事掲載には劇団側から提供されるポートレートを使用するようにと厳しく通達されていた。それは、今はどの角度から写真を撮られてもいいとは思えない、これもまたスザナの意向であった。
どこまでも異例づくめの婚約発表。
そして。
午後からはマスコミを完全シャットアウトしての婚約パーティー。完全シャットアウト、と言っても、なぜか婚約披露パーティーが行われることはマスコミに筒抜けになっていたのだが。そのパーティーを主宰するのはストラスフォード劇団のロバート・ハサウェイ。
通常は自宅で行われることが多い婚約披露パーティーだが、今回は彼と繋がりの深いこのホテルが選ばれたのだった。
長い役者人生の中で、団員の婚約披露パーティーを主宰するのはロバートにとっても初めてのことだった。それほど、このふたりの婚約はストラスフォード劇団にとっても重要な意味を持っていたのだ。
ロバートが、なぜ団員の婚約を急ぐのか、マスコミに大々的に公表するために自らが動くのか、テリュースにはその真意が痛いほどわかっていて、なすがままになるしかなかった。
今日の婚約披露パーティーに招かれているのは、スザナ側の親族、劇団関係者や友人などで、テリュース側の親族や友人などはひとりもいなかった。
しかし、スザナはそのことをまったく気にしていなかった。それは、彼がエレノア・ベーカーの隠し子であるという噂は有名であったし、家族のことや生家のことをまったく話そうとしないこともうすうすその理由を想像させたからだ。
「では次におふたりともこちらに視線をください。」
カメラマンが満面の笑顔でテリュースとスザナに声をかける。
カメラマンの指示に従ってふたりが動く度に、アシスタントがドレスの裾や髪の毛、生地の流れを素早く直す。座ったままのスザナには特に細心の注意が必要だった。カメラマンはアシスタントの動きを待ちながらひとりごとのようにあらためて感嘆の呟きをもらした。
「そのドレス、スザナさんにとても似合っていますよ。読者にスザナさんのドレスの色をそのまま見せてあげられないのが残念だ。」
この当時、写真はカラーではなかった。
滑らかな光沢を放つ微細な刺繍が施されたモーブ色のドレスは、スザナの計算しつくされた美しさを演出していた。華やかな雰囲気と品の良さを感じるそのドレスは彼女を一層引き立て、咲き誇る大輪の花のように映えていた。
そして、その傍らに立つ、白のドレスシャツと黒地にモーブの絹糸の織りが微かにまじる豪華な生地のスーツに身を包んだテリュース。見るものの時間を奪ってしまうような神々しいオーラのあるふたりだった。
「スザナさん、テリュースさん、おめでとうございます。」
カメラマンは、アシスタントが用意して抱えていた花束を受け取って、自らスザナへ手渡す。
「お幸せに___。」
周りにいたスタッフから口々に祝いの言葉がかけられた。知らぬ者などいないスザナの舞台事故。女優としての道を閉ざされたスザナがつかんだ愛。様々な苦難を乗り越えての今日の婚約発表にどれほど辛い思いをしたのかとスタッフたちはスザナの側に立って喜んでいた。
「ありがとうございます。」
スザナは喜びを噛みしめるように笑顔で彼らにこたえた。
どれだけ待ち望んでいた瞬間だろう。悪魔に心を売り渡してでも、と望んだ願い。怖いくらいに幸せ。スザナはその場の空気を味わうように深く息をした。
撮影が終わると、カメラマンたち一団が去るのを待たず、テリュースがスザナを抱き上げ、車椅子へと移す。そして、スタッフから手渡されたショールを薄いドレスのスザナにそっと羽織らせた。
「ありがとう、あなた。」
スザナが当たり前のようにテリュースを見上げる。
そしてそのままテリュースはスザナの車椅子を押し、スタッフの案内に従って用意されていた部屋に入る。セントラルヒーティングが入り、華やかなクリスマスの装飾が施されたその部屋は、暖かで幸せな空気に満ちていた。
「寒かっただろう。何か飲むといい。」
テリュースは、もう1度スザナを抱き上げてソファに座らせると近くにいたスタッフに温かい飲み物を運ばせ、自らがそっとソーサーにのったカップを手渡す。するとテリュースの手に触れたスザナがその冷たさに驚く。
「テリィ、氷のように手が冷たいわ。あなたこそ、温かい飲み物が必要よ。」
スザナにはテリュースの手の冷たさが、彼の心の中を表しているように感じられて、彼女の温かな心にフッと風が吹き込む。
「すまない。こんな手で触ったら君も凍えてしまうよな。」
テリュースがはっとしたように呟く。
「そんなことおっしゃらないで。あなたのその手が私を温かな気持ちにさせてくれるの。」
スザナがすぐに自分の手をテリュースの手に重ねて微笑んだ。
20分ほどの休憩を挟んで、午前のスケジュールがまた動き出した。
最初のインタビューは、正統派の演劇誌ではなく、「ヴォーグ」という人気女性誌。スタッフが廊下にスタンバイしていた若い女性記者を招き入れた。
その雑誌は、女性の生き方やファッション、流行など、女性読者が興味を引きそうなことが主な内容だ。発行部数が驚異的なその雑誌を、新たなファン層の獲得手段だと劇団は考えていてインタビューを許可したのだった。
その後は、伝統ある演劇誌1社と演劇のコラムで有名な大手新聞社1社のそれぞれの名物記者がインタビューする予定になっている。その前の前座とでも言える若手記者のインタビュー。
「テリュースさん、スザナさん、ご婚約おめでとうございます。初めまして、ヴォーグのリンダ・マッケンローと言います。」
女性記者は、テリュースとスザナを前に、礼儀正しく、少し緊張した面持ちで挨拶すると彼らの前に座った。
矢継ぎ早に尋ねたい質問はあるのだが、態度は慎重になる。目の前にいるテリュースは、気難しいマスコミ嫌いで有名だったからだ。
「それでは、まず最初に、おふたりの出会いについてお聞かせいただけますでしょうか?ストラスフォード劇団ではスザナさんの方が先輩だと伺っていますが、スザナさん、テリュースさんの第一印象はどうでしたか?」
若い女性記者は用意していた質問を口にしながら、隠しきれない羨望の眼差しをスザナに向ける。同じ女性として、テリュースのような男性の傍らにいられる幸せな女性、スザナ・マーロウに聞きたいことは山のようにあった。
「私が、テリィに初めて会ったのは、彼が劇団のオーディションを受けにきた時なんです。」
「その時、おふたりは言葉を交わされましたか?どんな印象を?」
「テリィが、ストラスフォード劇団はここかと尋ねたので、私はそうだと答えました。すると彼は劇団員のオーディションを受けにきたんだ、と。その時私は、彼はきっとストラスフォードの一員になるだろうと感じました。」
「なるほど。第一印象からスザナさんはテリュースさんのことをそのように思われたんですね。テリュースさんに恋をしたのはその瞬間・・と言っていいですか?」
やや踏み込んでいる質問ではあるものの、幸せなふたりにはむしろ世間に話して聞かせたい過去だろう、その記者はそんなことを思っていた。
「・・ええ。そうだと思います。」
スザナは隣にいるテリュースの顔を見つめてふんわりと微笑んだ後、影のかかる長い睫毛を揺らし、はにかんだようにうつむいた。その様子をみた女性記者がやはりそうなんですねとでも言うように笑ってうなづき、次にテリュースに顔を向ける。
次の瞬間、テリュースの瞳がその記者に真っ直ぐに注がれ、彼女はそのブルーグレイの瞳に吸い寄せられるような思いに襲われた。彼の髪が一房揺れただけでドキリと心臓が高鳴ってしまう。
「・・でっ、では・・、テリュースさんもスザナさんの第一印象を教えてください。」
そんな記者の心など素知らぬように、テリュースは、柔らかな表情で、ゆっくりと口を開いた。優しい婚約者として。華やかな女優の理想的な恋人として。
「・・・・美しい女性だと思いました。ストラスフォード劇団にはこんな女優がいるのかと驚きました。」
「ではやはりテリュースさんもその時恋に落ちた、ということなんですね。」
自然な間合いをとってテリュースが穏やかに答える。どう答えるべきかは、わかりすぎるくらいわかっていた。
「・・ええ。」
それを聞いたスザナが頬を染め、幸せそうにテリュースを見つめる。その瞳を受け止めるテリュース・グレアム。
完璧な恋人たちだった。完璧すぎるほどに___。
記者としてというよりも同じ女性として彼女が1番尋ねてみたい質問だった。
氷の貴公子と揶揄されるテリュースが、スザナに結婚を乞うたプロポーズ。本当に彼がそんなことを口にする瞬間があるのだろうか?そんなことを記者に思わせるほど、ストラスフォード劇団のテリュース・グレアムは、完璧な恋人だが、どこかひんやりとした空気に包まれていた。彼女にはテリュースが熱いプロポーズの言葉を口にするとは想像しがたかったのだ。この場にいてすら、しっくりこないくらいに。
「ごめんなさい。それは私たちふたりだけの間で大切にしたい想い出なので、秘密にさせてください。あ、でもとてもロマンチックで素敵なプロポーズでしたわ。」
スザナが艶然と微笑みながら、きっぱりと告げる。
スザナは、テリュースが記者に向かって自分とのロマンスをぺらぺらと語るとは考えられなかった。そもそもそんなものはありもしないのだから。
責任と義務に彩られた穏やかな思いやりの関係。どこかで冷静な自分が囁くがそんな声には今日は耳を貸さない。
なんとかしてスザナは、自分がテリュースから激しく愛されていると、目の前の記者やその向こうの読者たちに思わせたかった。それに、自分たちがどれほど愛し合っているかも見せつけたかった。
婚約が決まってから、テリュースに伝えられたプロポーズとはほど遠い言葉は、どこか心の隅に封印し、見ないようにしていた。
きっと、あの人も私たちの婚約を知ることになる__。雑誌か新聞のどちらかで。その時、テリィの心がわたしへと向かったのだと思い知らせたかった。あなたのところにはもう心の欠片すらないのだと。
キャンディス・W・アードレー。
あっさりとあっけなく身を引いたあの人。
ホッとする気持ちと同じくらい、「あの人にはかなわない」そう思わせられた。
私を惨めにさせるあの人が嫌い__。
でももうそれも終わりよ・・。正式に彼の妻になる。・・きっと身も心も本当の妻になれるわ。
スザナは夢が叶った今日、もうこれからはあの人のことを考えなくていいのだと幸せなことだけ考えることにした。
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