「アチチッ!」
キャンディはマグに口をつけてから後悔する。
「もう、キャンディったら。だから気をつけてと言ったでしょう?」
レイン先生の呆れた声に、椅子に座って先に休憩をとっていたポニー先生がたまらず笑いだす。
「早く飲みたくて、つい。」
キャンディはふたりに向かってエヘッと笑顔を見せた。
幼い子供たちはまだ眠っている。まだ少し深い朝。
キャンディは毎朝、ポニー先生、レイン先生と一緒に子供たちの朝ごはんを用意し、準備ができると子供たちを起こすまでの僅かな時間に一杯のホットココアを飲むのが大好きだった。
さぁ、今日も目が回るくらい忙しい1日が始まるわ!
その前にあるポニー先生とレイン先生との宝物のような愛おしい時間。毎朝レイン先生の入れてくれた熱々のココアを飲みながら、キャンディはポニーの家に帰ってきた幸せを感じるのだった。
『ポニーの家』は、シカゴから50マイルほど南、インディアナ州にある小さな村の丘陵に位置している。
なだらかな丘が波のように広がり、スプリットレイルフェンスに囲まれた牧場とトウモロコシ畑が世界を作り上げる、のどかな田舎。その風景の中にあるポニーの家。それは、まるで童話の1ページのような素敵な景色だとキャンディは誇らしく思っていた。
春から秋にかけては、その牧草地帯一面に牛や馬たちがのんびりと草を食んでいる風景が見られるが、冬になると家畜たちの姿はそこにはなく、雪に覆われた平原が広がっているだけだ。それでもたまに牛舎の外に出ている家畜をみることはあるが、それは暖かな冬の日に限られていた。
「キャンディ、今日は晴れてよかったわ。汽車が止まるのではないかと心配だったの。」
レイン先生が、窓の外を見ながらキャンディに声をかける。今朝は、昨日の吹雪が嘘のように雪はやみ、東の空がうっすらと明るくなっていた。
「大丈夫よ、レイン先生。わたしって運がいいの。わたしがシカゴに行く時には、いつも晴れて汽車は定刻通りにやってくるんだから。」
余計な心配をかけたくないと、前回、駅のホームで1時間も汽車を待っていたことをキャンディはレイン先生たちに話していなかった。
今日は、キャンディがシカゴに行く日。
ポニーの家と村の有志で作っている『ポニーカヘタ』を卸しているシカゴのデパート、マージャル・フィールドに、キャンディは月に何度か打ち合わせに行く必要があったのだ。
キャンディはポニーの家へ帰ってきてから、村の診療所を立ち上げただけではなく、ポニーの家の運営にも力を注いでいた。
それは、彼女自身の経験から、資金がなければ、ポニーの家の子供たちを守れないと考えていたからだ。
幼き日のキャンディは、ポニーの家の財政が苦しいことを身にしみて感じていた。壊れた眼鏡のつるを何度も修理して使っているポニー先生、色褪せてしまったレイン先生の修道服、野菜しか入っていないスープ。
だから、『もっとゆっくり考えた方がいい』と言うポニー先生やレイン先生のアドバイスも聞かず、キャンディは二つ返事で使用人としてラガン家に行くことを決めたのだ。13才にもなった自分がこれ以上、ポニーの家にいることはできない、そう思って。
かつてそんな思いを抱いていたキャンディだからこそ、ポニーの家に帰ってきてから、寄付金やバザーの売上げだけで孤児院を運営するのではなく、独自の収入を得ることのできる道を模索してきた。
この先ずっと、財政を気にすることなくポニーの家が孤児を受け入れできるように、また子供たちに十分な教育を与えられるようにと。
そこでキャンディは、アードレー家を率いる敏腕経営者でもあるアルバートに相談し、ヤギの乳から作った『カヘタ』というスイーツをシカゴのデパートで売る事業を始めたのだった。
ポニーの家のすぐそば、カートライト牧場から購入した土地でヤギを飼い、子供たちが世話をし、乳を絞る。
さらに、キャンディは村の有志にも声をかけてヤギを飼ってもらい、さらに乳を集める。
そして、アルバートに資金を出してもらった小さな工場で、カヘタを製造するのだ。
カヘタの売上げの一部は、有志の村人への賃金の支払いに、残りはポニーの家の運営費やハッピー診療所など、村の公共施設に使用されていた。
決して多くはないが、確実にポニーの家も村も『ポニーカヘタ』の売上げに助けられていた。
「親分、用意できたかい?」
キャンディがココアを飲み終わった頃、今はカートライト牧場で働いているジミイが玄関のドアを開けて、ひょっこり顔をのぞかせた。
「おはよう、ジミイ。いつもキャンディを送ってくれてすまないわねぇ。」
椅子に腰をかけて休憩していたポニー先生がジミイに感謝の言葉をかける。キャンディがシカゴに行く日にはいつもジミイが馬車でキャンディを駅まで送ってくれるのだ。
「なんのなんの。親分のシカゴ行きには、この村の未来がかかっているんだし、オイラも手伝えて嬉しいってことさ。」
慣れないヤギの飼育も村の人々との橋渡しもジミイは一役買ってくれていた。
「ジミイ、これはキャンディが焼いたくるみパンなの。後で食べてちょうだい。」
レイン先生がジミイにくるみパンの入った包みを渡すと彼は袋を覗き込んで鼻をクンクンさせる。
「うーん。いい匂いだ。親分の焼いたパンは最高だからな。」
ジミイの言葉にポニー先生がぼそりと呟く。
「本当に。最近は、キャンディのパンもなかなかおいしくなってきましたよ。」
ポニー先生は悪くない。正直なだけだ。
ジミイはポニー先生の言葉に苦笑いしてキャンディにウィンクを飛ばすと、彼女の小さなトランクを持ち上げた。
「親分、さぁ、行こう!」
「ありがとう、ジミイ。」
キャンディは、ジミイにウィンクを返すと、汽車の中で食べようとそのパンとリンゴの入った包みを持って立ち上がった。もちろん、そのくるみ入りのパンは、アルバートへのお土産として小さなトランクにも入れてある。
シカゴのデパートに行く日は、アルバートに会える日でもあった。
シカゴでも有数の高級デパート、マージャル・フィールドで、売り場主任との打ち合わせが終わり、アルバートの顔を見てから帰ろうと正面玄関のところまでやってきたキャンディは、世界で1番会いたくない人にバッタリ会ってしまった。なんというバッドタイミング。
あれは、イライザ・ラガンだ!
お抱え運転手にドアを開けてもらい、車から降り立ったイライザは、キャンディがイライザに気づくのと同時にキャンディに気がついたようだった。
イライザは一瞬驚き、すぐに皮肉な笑みを口元に浮かべる。そして気取った仕草で近づいてきて意地悪な言葉をなげかけた。
「田舎の山猿がこのデパートに何の用?ここはお前みたいな田舎者が来るところではなくてよ。」
相変わらず、ワンパターンな攻撃だわ。キャンディは、イライザのそんな言葉は慣れっこだった。
しかし、ポニーの家の『ポニーカヘタ』のことがイライザにバレると厄介なことになるかもしれない、そんな心配もあって、キャンディはそそくさとその場を立ち去ることにした。
「ちょっと急いでいるの。またね、イライザ。」
そんなキャンディの後ろ姿にイライザが慌てて声をかけた。
「お前、ヴォーグで特集しているテリィの記事、読んだ?」
「テリィの記事……?」
テリィの新しい舞台の話題だろうか?キャンディは思わず立ち止まり、振り返ってイライザを見た。
「ほほほっ。お前、どうやら記事を読んでいないようね。」
キャンディの表情を見たイライザの瞳が暗く燃え上がる。獲物を狙う肉食動物のような目。
「雑誌にはテリィの心がしっかりと書かれていてよ。読むといいわ。」
そう言うとイライザは、乗っていた車に戻り、運転手にドアをもう1度開けさせると後部シートから1冊の女性誌を取り出した。そしてキャンディに近づくとわざとぞんざいに雑誌を投げてよこす。
「いい気味だこと。それを読むと、お前の愚かな思い上がりが打ち砕かれてよ。身のほど知らずにお兄様にした失礼な振るまいを後悔するといい。」
ニヤリとイライザが微笑むのを見て、キャンディの心臓が早鐘を打つ。
見てはダメ──。イライザが見ろという記事なんて、見ない方がいい。
心がそういうのに、『テリィ』というワードにキャンディは自分を止められなかった。
キャンディはイライザに無言で背を向けると、そのままアードレー家の本社まで走り、すぐにアルバートの執務室に飛び込んだ。背中にぶつけられたイライザの高笑いがまだ耳に残っている。あいにくアルバートは部屋にいなかったが、キャンディは応接用の椅子に腰をかけ、ヴォーグを開いた。
ヴォーグを開くと飛び込んできたのは巻頭のストラスフォード劇団のテリュース・グレアムとスザナ・マーロウの婚約発表の記事。
『ストラスフォード劇団のテリュース・グレアムとスザナ・マーロウ、ついに婚約!』
見出しの言葉は、ふたりが婚約を発表したことを伝えていた。幸せそうなスザナとその横にはテリィの微笑み。
写真のふたりは、リア王のシカゴ公演で見た時より華やかに、幸福そうに見えた。
────婚約したのね・・・・。
涙が瞳から溢れた。
アルバートがキャンディの来室を知らず、自分の部屋に入ると泣いているキャンディの横顔があった。驚いて一瞬ドアを開けたまま立ち尽くしてしまったアルバート。
その音にも気づかず、雑誌を見つめ、泣いているキャンディ。静かに、声もあげずに__。
いつからこんな風にキャンディは声をあげずに泣くようになったのだろう。
アルバートはそんなキャンディに気づいていた。
アルバートが初めて彼女に会った時、
ポニーの丘にかけ上がってきたキャンディは、地面にうっつぶして丘一体に響き渡るほどの大声で泣き叫んでいた。
「うわぁぁぁーーーん!!」
見事な大声と嗚咽。その彼女の悲しみの表現にアルバートは惚れてしまったのだ。
アードレー家の当主は、感情を表に出してはいけません。どんな時も冷静沈着に。悲しみも怒りも喜びも押さえて、本心を気取られないようにしなくてはなりません。そんな教育を受けてきたアルバートにとって、彼女の姿は衝撃だった。
きっと、彼女は悲しい時にはああやってこの世の終わりのように泣き、嬉しい時には真夏のひまわりのような笑顔を見せるに違いない。嘘のない本当の姿で。
そんな彼女の素直でまっすぐな姿にアルバートはほっとし、安心したのだ。世界中の人々が己れの感情をごまかし、嘘をついて暮らしているのではないとわかったから。
彼女を毎日、太陽の輝きのような笑顔にしてあげられたら。いつも笑っていて欲しい。その笑顔を守りたい。そんな気持ちになった。
だが───。
キャンディはいつからか、悲しい時も声をあげずに泣くようになってしまっていた。涙をこぼしながら、静かに。
そう、彼と別れてからだ__。
キャンディは、アルバートに涙を指で拭われて、そこで初めて自分が泣いていることに気がついた。
瞳で語りかけるアルバート。
「キャンディ・・・・。大丈夫かい?」
更にポロポロと涙がこぼれるキャンディ。
「アルバートさん・・・・。」
キャンディが我に返ったように彼を見上げて無理に笑顔を作ろうとするのがわかった。
「────キャンディ、記事を見たんだね。」
ジョルジュからの報告で、数日前に同じ雑誌を読んだアルバートは、目の前のヴォーグとキャンディの涙に、彼女の気持ちを痛いほど理解していた。
そして。
アルバートは彼女の気持ちを知っているはずなのに、その気持ちを突き付けられるとなぜか息が止まりそうになった。心臓がざわりと音を立てる。
彼のために泣いているキャンディ───。
テリュース・グレアムとスザナ・マーロウの婚約記事。ふたりのインタビューが紙面を飾り、幸せな恋人たちとして輝く笑顔のスザナ・マーロウと微笑むテリュース・グレアム。彼の内面は計り知れないが、ストラスフォード劇団の肝いりで婚約発表が行われたのは間違いなかった。
「・・・・バカよね、わたし。あんまり考えないようにしていたから、ちょっと驚いちゃったの。・・当たり前よね、恋人同士なんだから婚約したり、結婚したり・・・。」
無理に笑おうとしたキャンディはまた自分の言葉にたまらなくなったように言葉をつまらせた。
「自分ではもう大丈夫、すっかり忘れてしまったと思っていたのに。。。おめでとうって、思わなくちゃいけないのに、泣いてしまうなんて・・・・。」
「キャンディ。・・・・僕ではダメか?」
突然、アルバートの口からついて出た言葉だった。押さえていた気持ちが沸き出した。
「僕では彼の代わりになれないか?」
「────アルバートさん・・・?」
キャンディは意味がわからないようだった。
「キャンディ、以前にも僕は言ったよね。君の悲しみや悩みをふたつに割って僕にくれないかと。約束しようと。」
そんな事を口にしたアルバートだが、彼自身も世間の目や親族たちの思惑は考えていなかった。自分の気持ちを公(おおやけ)にすることの意味も周りに及ぼす波紋も何も考えていなかった。
キャンディの涙を見るまで、そんなことを自分自身が言い出すなど、アルバート自身、微塵も考えていなかったのだから。
ただ────。
キャンディの笑顔を守りたい、幸せにしてやりたい、それだけだった。
次のお話は
↓
永遠のジュリエットvol.22〈キャンディキャンディ二次小説〉
「ねぇ、キャンディ、ものすごく顔が赤いわ。なんで、そんなに真っ赤になるの?」
アニーが長い睫に縁取られた美...
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。貴重なみなさまのお時間を使って読んでいただきましたこと、深く深く感謝いたします。本当にありがとうございます💕
テリィについては迷うことのない『妄想ストーリー』を持っている私ですが、アルバートさんについては、「キャンディについてどんな気持ちを持っていたのだろうか?」「当主としての厳しい生活から放浪の旅に出たのはどういう経緯で?」などなどたくさん悩みます。私にとって誰よりも謎だらけの人物です。
次回は、物語をお休みして私の中のファイルストーリーの『あの人』像について少し書いてみたいと思っています。
今日も良い1日をお過ごしください💕
「あの人について思うこと」についてはこちらから💕
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