何か言いたげなテリュースの瞳。
『このまま思っていることを素直に言えたなら。
尋ねたいことをすべて聞けたなら。
どれだけ心が軽くなるだろう』
しかし、どんなにあがいても”過去の楔(くさび)”はテリュースを捕らえ、離してはくれない。
『自分には婚約者がいる。不治の病に冒されたスザナが待っている。
キャンディを抱き締めるなんて許されるわけがない』
心の中でギシリときしむ音が響き、テリュースは必死で自分にブレーキをかけた。胸の中が焼けただれたような苦い感触。
テリュースはやっとの思いでキャンディをその腕から解放した。
そして。
「すまない強く握って。痛かっただろ。先生が起きていたら呼んできてくれないか。尋ねたいことがあるんだ」
そう言って、ぎこちなく微笑んだ。
何か痛みを感じているように辛そうな表情のテリュース。
キャンディは、
「どこか痛むのね？すぐに先生を呼んでくるわ。待っていて」
優しくそう言って、慌てて医者を迎えに行こうとドアの方に数歩あるいたが、ふと言い忘れたことに気づいて振り返った。
「いい？絶対に動いちゃだめよ。頭を打って長いこと意識がなかったんだから」
キャンディは内心の戸惑いを隠してそう言うと、乱れた髪をささっと直し、すぐにドアの向こうに消えた。
パタン。ドアが閉まる。
『キャンディ、君の後ろ姿は見たくない。あの時を思い出すから』
テリュースは静かに目を閉じた。
その日、サウザンプトンの街は裏切りの雨に見舞われていた。
穏やかな晴れた冬の朝で始まった１日は、街の人々が洗濯物を干し、掃除を済ませて買い物に出ようとしたちょうどその頃、瞬く間に暗雲が空を覆いつくした。数分後には雨が降りだし、風も雨を追いかけるように強くなった。
テリュースのいる部屋でも大粒の雨が体当たりするようにガタガタと窓を叩いていく。
しかし。
いつもなら憂鬱な気分になりそうなベッドから眺める暗い空も、今日はテリュースを優しく包み込んでくれるように思えた。もうずっと長いこと感じたことのない幸福感。
同じ屋根の下にキャンディがいる。もうすぐキャンディがこの病室にやってくる。
今だけは何も考えず、この時間を過ごしたい─────。テリュースはそう思っていた。
「遅い！遅すぎる！すぐに戻ってこいって言ったのに何やってたんだ？」
部屋に入ってきたキャンディに、ベッドの上で半身を起こしたテリュースが不機嫌そうにぶつくさ言った。
キャンディは、バタバタと大慌てでテリュースのための準備を持ってきた、そんな格好をしている。カートには、血圧計、ホットタオル、消毒薬、包帯などが入っていた。
「だって、みんなに頼まれたことをやってたら遅くなっちゃったのよ」
「みんな？」
「そう。大部屋の患者さんたちに体を拭いて欲しいって頼まれて、順番に拭いて包帯を取り替えてあげたの」
「はぁ？体をふくだって？俺がまだやってもらってないのにか？」
「あら、別にテリィが後回しでもいいじゃない」
「キャンディ、君は”俺の”専属看護師だろ？俺がまだなのに、なんで他のヤツが先なんだ」
意識を取り戻した直後のテリュースの様子が心配だったキャンディも、数日たつうちに彼が元気を取り戻したように見えてホッとしていた。
やはり、どこか痛かっただけね。キャンディは安心してテリュースの軽口に応じる。
「やだわ、テリィ。なんで私があなたの専属看護師なのよ」
「さっき来たじいさんの医者がそう言ってたぜ。君がどうしても『俺の』看護をしたいと頼み込んだんだ、ってな。イケメンは羨ましいな、ウホホって肩を叩かれた」
キャンディは話しながら持ってきた血圧計をテキパキとテリュースの包帯を巻いてない方の腕に巻く。
テリィが『俺の』という言葉だけ強調したのも、医者の真似をしたのもクスッと笑えたが口にしたのは別のことだった。
「血圧を計るから静かにして…………。はい、血圧もいいようね」
キャンディは満足げに言って血圧計を外すと、
「じいさんの医者じゃなくて、トーマス先生よ。ちゃんと名前を呼びなさい。」
と注意した。
Dr.トーマスはもう十年前に引退し、家でガーデニングをするのを生き甲斐にしていた八十歳過ぎの元ドクター。戦争の影響で人手が足りず、かりだされたのだが、はっきりいってかなりヨボヨボだった。目も悪い。耳も遠い。しかし、判断は確かでオチャメな性格のその老医者をキャンディはもうすっかり好きになっていた。
「ちぇっ。説教より、早く身体を拭いて包帯を取り替えてくれ。あ、あと髪も洗って欲しいな。こんなんじゃ元気もでない」
テリュースは固まって肩に張り付いている栗色の髪を持ち上げて大袈裟に顔をしかめた。
「ごめんなさい。先に大部屋に食事を運ばなきゃいけないの。今からテリィの身体を拭いて包帯を取り替えるけど、髪の毛を洗うのは食事を運んだその後でいい？」
「はぁ？俺は後回しか？それじゃあ、やたらとチョロチョロ病室に入ってくる看護師たちを追っ払って、君を待っていた俺がバカみたいじゃないか。彼女たちに頼めばよかったな」
テリュースはふて腐れたようにフンと鼻を鳴らした。
確かに、テリュースの病室には、ボランティアの看護師たちが、毎日ひっきりなしにやってきていた。
テリュースの素性は、キャンディが話したわけではないのだが、行方不明だったブロードウェイの俳優が見つかったと新聞に取り上げられ、意識を取り戻したことも周知の事実となっていた。収容された病院の名前は記載されていなかったが、ボランティアの看護師たちはそれが自分たちの働く仮設病院であるとわかったようだった。
「意識のなかった患者さん、ブロードウェイの俳優なんだって。」
「やっぱり？どうりで彫像みたいにすべてが整っているわけよね。」
「ねぇ、ベッドに半身を起こした姿を見た？彼、超かっこいい～」
「わかるぅ～。見つめられるとドキドキしちゃうもの。あれは魔性のまなざしよね」
「それに栗色の長い髪がロマンチックでたまらない！今日は髪を洗ってあげようかしら」
貴族や裕福な中産階級の子女や奥方であるボランティア看護師たちは、用事もないのに入れ替わり立ち代わりテリュースの病室に顔をのぞかせていた。
たぐいまれな容姿も理由のうちだが、ボランティア看護師たちに騒がれてもクールな態度。それが一層彼女たちのハートを燃え上がらせていた。
部屋を出たボランティア看護師たちが廊下で笑いさざめく声が聞こえ、急に母屋より離れの棟が賑やかになっている。
だが、そんなボランティア看護師たちの『何かお手伝いすることはありませんか？』の声に、テリュース本人はと言えば、寝たふりをするか、いつもそっけない口調で”必要ない”と伝えるだけだったが。
「なぁ、キャンディ、いつからイギリスにいるんだ？アメリカから派遣されてきたのか？」
キャンディが身体を拭く準備をしているそばで、テリュースが尋ねる。
「……ええ？……まあ……、そんな感じなの。ほら、今はどこでも看護師を必要としてるでしょ」
「そうなのか……。ヨーロッパは危険だって、みんなに反対されなかったか？」
「……まぁ……ね。それより、さあ、身体を拭いてあげるわ」
そう言ってサラリとはぐらかすと、キャンディはテリュースが掛けていた毛布をはがした。すると、セントラルヒーティングのほんわり暖かな空気に包まれた病室に、テリュースの包帯を巻いた身体があらわれ、キャンディはドキリとしてしまう。
「キャンディ、顔が赤いぜ。照れてるんだろ？」
テリュースがしれっと言い放つ。
「やだ。何いってんのよ、テリィ。私は看護師なんですからね。もう男子の裸なんて見飽きちゃったわ」
「はぁ？見飽きるくらい見たのか？」
「そうよ。ス～ッポンポンでも平気なくらい見飽きちゃった」
「気の毒だな。キャンディにス～ッポンポンを見られたヤツは」
「もう！テリィったら」
プウッと膨れっ面になるキャンディに、今度はテリュースが意地悪な笑みを浮かべた。
「そばかすキャンディ、そんな顔をしてムクレてるとあの絵にそっくりだぜ」
テリュースは、壁にかかっている絵を見て肩を揺らしてくっくっと笑う。
壁には金の額縁入りのまるまると太った天使とガリガリに痩せた黒い悪魔の『宗教画』が掛かっていた。
「あの天使に？ちょっと太りすぎにも見えるけど、”天使にそっくりだ”って言われるのは、気分は悪くないわね。まあ、太っていようが、天使は天使ですもの。許してあげる」
キャンディは満足げにふふふっと笑った。
「だれが、天使の方って言った？」
テリュースがニヤリと口の端を持ち上げる。
「俺が似ていると言ったのは、悪魔の方だぜ」
「はぁーーーぁ？失礼しちゃうわ。白衣の天使にむかって悪魔だなんて」
キャンディが拭いていたタオルを持ち上げて投げつけるフリをする。
「白衣の悪魔ってのもあるぜ、きっと」
いたずらっ子のようなテリュースの表情。
「もうテリィ、本気で怒るわよ。そんなこと言うなら、あの絵は外しておかなきゃ」
「ちょっとまて。あの絵は有名なサウザンプトン出身のジョージ・スワンソンの絵だぜ。粗末に扱うと叱られるぞ」
「なんでわかるの？」
「そんなの見りゃあわかる。スワンソンと言えば宗教画の巨匠なんだ」
「へえー。もしかして、テリィ、絵画にも詳しかったりする？」
そう言ってキャンディはまじまじと壁に掛かっている絵画を見るが、あきらかに理解はしていなさそうだ。
「当たり前だろ。セント・ポール学院始まって以来の”オールAの主席”とは俺のこと。”素行”以外はすべて完璧。美術ももちろん”A”だ」
「えーー‼️」
「それ、シャレてんのか？」
「コホン。別にシャレを言ったわけじゃないけど、びっくりだわ。演劇と音楽には才能を感じるけど、美術も得意だなんて」
「だろ？俺はなんでも器用にこなすのさ」
「ってことはテリィ、絵も描けるの？」
「ああ、もちろん描ける。それに絵画を見る”眼”もあるぜ。だいたい芝居をやるやつは芸術一般に長けているからな」
そう言ってから、テリュースは美術商のスザナの父親と絵画の話をしたことを思い出して、チクりと胸が痛んだ。今だけはNYを思い出したくない。テリュースは、その思いを振り切るようにキャンディに笑いかけた。
「腕が治ったら白衣のキャンディを描いてやるよ。ま、キャンディがモデルじゃきっと売れない絵だけどな」
「失礼しちゃうわ。売れないだなんて。」
「まぁ、怒るな。売れる絵が良い絵ってわけじゃないから」
おしゃべりをしながらもテキパキとテリュースの身体をきれいに拭いていくキャンディ。憎まれ口とは裏腹にテリュースが気持ち良さそうにしているのがキャンディには嬉しかった。しかし打ち身や傷にタオルがあたると大きく顔をしかめてはいたが。
「そうなの？わたしは高く売れる絵が”良い絵”なんだと思っていたわ。じゃあ、”良い絵”っていったいどんな絵なの？」
「キャンディにしてはなかなか哲学的な質問だな。」
テリュースは笑って、少し考え込むように黙ってからゆっくりと口を開いた。
「俺が思う良い絵とは、絵画の技法や技術を越えて、”物語”を感じさせる絵……、かな」
「物語？」
「ああ。その絵の向こうに色んな景色が見えるような……、って言うとわかりにくいか？つまり、見る人に色んなことを想像させたり、感じさせたりする絵ってことだ」
「へぇ、想像させたり、感じさせる絵、ねぇ……」
キャンディはアルバートさんの似顔絵を描いた時にマーチン先生に爆笑されたことを思い出した。
『まぁ、そういう意味じゃ、私の似顔絵もマーチン先生に色々と感じさせたと言えるわね』キャンディは心の中でクスリと笑った。
「ね、テリィ。包帯を新しくする前に傷の消毒をするわ。ちょっと染みるかもしれないけど、我慢してね」
キャンディは身体を拭き終わるとテリュースに声をかけた。
シーナ・センチュリオン号の負傷者たちにとって怖いことのひとつに、船の部品の破片やサビ、海水などの汚れに接した傷口があった。
怪我をした傷口に付着した異物や壊死した皮膚の組織から細菌が感染すると炎症を起こし、化膿することがある。そしてそれは敗血症など恐ろしい全身の疾患につながる恐れがあったのだ。
テリュースも全身に深い傷があり、その傷口を清潔に保たなければならない。
「キャンディ、頼むからそーっと優しくやってくれよ。そーーっと、だぜ」
テリュースがキャンディの手にした消毒薬を見ながら、珍しくたじろぐ姿に、キャンディはもう少しいじめてみたくなる。
「ふふん。さっきの仕返しをするなら今ね。やり返そうかな～」
ニタ～ッとするキャンディ。
「わかった、わかった。俺が悪かった。謝るから」
テリュースがしかめっ面で謝るとキャンディは微笑んだ。
「素直でよろしい！テリィ、じゃあ”最初にものすごく痛い”のと”後でものすごく痛い”のはどっちがいい？」
「やっぱり痛いんじゃないか。そんなのどっちもやだね」
つーんとそっぽをむくテリュース。
テリュースの右肩の傷は全身のどこよりも深く、ぱっくりと口を開けていたため、運び込まれた日にすぐに手術して縫い合わされていた。そしてそこを動かさないようにギブスで固定されていたのだ。そこを消毒しないわけにはいかなかった。
「仕方ないわね。”最初にちょっぴり痛くて、後ですこ～し痛い”にしてあげる」
キャンディは吹き出しながらそう言うと、テリュースの『痛いのは嫌だ』という再三の抗議の声はスルーして、消毒をしながら気をまぎらわせてあげようとさっきの話に戻す。
「ところで、テリィ。”絵を見る眼”を持っているって言ったでしょ？きっとたくさんの絵画を見てきたのね」
「ああ。父さんが絵画をコレクションしていたから屋敷は絵画であふれていたし、学院にいた頃はしょっちゅうサボってナショナル・ギャラリーに行ってたしな。それに”蚤の市”にもよく足を運んだぜ」
「蚤の市って？」
「そうか……。キャンディのアメリカにはないのかもしれないな。蚤の市って言うのは、週末になると街の公園や広場で行われる”アンティークマーケット”のことなんだ」
「そこでアンティークの絵が売られているの？」
「ああ。蚤の市には、有名な画家がまだ売れる前、駆け出しの時代の絵が売られていたりするんだ。俺はそれを目当てにぶらついていたんだが、でも蚤の市はそれだけじゃないぜ。使わなくなった食器やカトラリー、家具やアクセサリー、何でも売られている。ガラクタに混じってお宝のヴィンテージまであるんだ」
「わぁ、素敵！お宝探しに行ってみたいわ」
「キャンディ、蚤の市なんて、週末になればロンドンのそこら中の公園や広場でやってるぜ。なんで”泣き虫なの”や”太ったの”と行かなかったんだ？」
「セント・ポール学院の真面目な生徒にはロンドンをぶらぶらする時間なんて許されてないもの。あなたくらいよ、サボって自由に街をぶらついていたのは」
「よく言うよな。学院を抜け出して、夜の街に薬買いに行くヤツに言われたくない」
「やだ、あれはテリィが怪我をしていたから仕方なく行ってあげたのに……」
キラキラした懐かしい思い出に浸る平和なひととき。
その病室の閉じたドアの前に立ち、漏れてくるふたりの楽しげな会話を聞くひとりの男性の姿があった。
じっと静かに身じろぎもせず、テリュースとキャンディの会話を聞いていた。しばらくそうしていた後、彼は部屋をノックするのを止め、そのまま玄関の方へと引き返したのだった。
次のお話は
↓
永遠のジュリエットvol.28〈キャンディキャンディ二次小説〉
「はい、これでよしっと」
キャンディは満足げに微笑むと椅子にかけたテリュースに手鏡を渡した。
...
全国100万人のテリィファンの同志のみなさま✨
アメブロのみなさま✨Google検索から直接訪れてくださるみなさま✨
今回は、ファイナルストーリーに出てくる『あの人が、ロンドンの蚤の市で見つけてくれた”スリムの絵”』への「足跡🐾」を書いたつもりです💕
そう❗テリィは元々蚤の市をブラブラするのが大好きで、ある日見つけたのです💕そう、スリムの絵を‼️
『これ、ポニーの家じゃね？』みたいに(笑)
あ、文中、「イケメン」など現代的なワードも文章の流れで使用しています。
テリィは絵画を見るのが好きですし(永遠のジュリエットvol.5、実はこれも足跡🐾)、絵画にも造詣が深く、ロンドンの蚤の市にも昔からちょいちょい足を運ぶってことです～💕それならスリムの絵を見つけたのも必然ですよね☀️
それから。
テリィがキャンディに甘えているシーンを書きながら、テリィ好きな私は、「いや～ん💕テリィの髪、私も洗いたい～💕そんでもって、乾かした髪をスンスンしたい～💕」「身体をふきふきした後包帯を替えて、その時包帯がぎゅうっとなって、テリィに”痛い”‼️とか言われたい～💕」って、妄想が爆発しています(笑)
みなさんもじゃないですか？？🤣爆発しますよね？
同志よっ‼️💕(笑)
あ、でも誤解のないように言っておくと。
テリィは毛布の下で、真っ裸だったわけではありません(笑)
安心してください❗はいてますよ🤣byとにかく明るい安村
『テリィがナショナル・ギャラリーを好き』に設定した理由は私のお気に入りの場所だからです。
ロンドンのナショナル・ギャラリーでレンブラントの絵を見た時、『本当に(絵の中に)光がさしこんでいるように見えるのに驚き、魅了されました。もちろん彼の絵には物語を感じます(笑)
それに私は絵画(肖像画)を見て妄想するのも大好きです。イギリスでは名もない古城や貴族の館が見学できるところがあるので、そのお屋敷に昔住んでいた紳士や貴婦人たちの肖像を見ることができます。
その貴婦人たちの肖像画を見ながら、妄想するのは私の趣味です(笑)🤣
いつもつたない私の物語を読んでくださってありがとうございます💕深く深く感謝しています。
こんな物語もありかな、そんな風に思ってお許しいただけたら嬉しいです💕
尊敬するおふたりの先生方に愛をこめて。
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