その日。
夜空の星々の輝きが深くなる頃、テリュースは、ニューヨーク市内を見下ろす丘陵に建つ元副大統領の屋敷を訪れた。
窓から煌々と明るい室内の光が外に漏れているその屋敷では、ヨーロッパ戦線にいるアメリカ兵たちに送る物資購入のための大がかりな『チャリティパーティー』が開催されていて、テリュースはかなり遅れて到着したのだった。
主催するのは、引退してもなおアメリカ政界に巨大な力を持つ元副大統領スティーブン・クルーニー。
彼は政界関係者のみならず、ニューヨークの各界から著名人や有名人たちを招待し、大がかりなチャリティパーティーで高額な寄付金を得て、ますます自身の名声をあげようと画策していた。
そのためにクルーニーは、今夜のチャリティパーティーで、有名人たちから提供してもらった洋服や愛用品などのオークション以外にも、彼の幅広い人脈を利用して、スポーツ選手や俳優、芸術家など有名人を招待し、彼らの『ダンスパートナーとなる権利』を社交界の人々に競り落としてもらうという、いかにもセレブたちが気に入りそうなイベントを用意していた。
華やかな有名人たちがダンスパートナーをつとめてくれるということでNY社交界の人々が大勢つめかけており、今夜のチャリティー金額は相当高額になるだろうと予想できた。
そして、その中でも。
社交界の淑女たちが、ダンスパートナーとして競り落としたいと切望しているのが、招待客のひとり、ストラスフォード劇団の俳優テリュース・グレアムだった。
めったにパーティーに顔を出さないことでも有名なテリュース・グレアム。その彼が、珍しくパーティーに参加し、ダンスパートナーになってくれるのだ。その情報に淑女たちはなんとか彼のダンスパートナーの座を手に入れようと、いったいいくら出せばテリュースを競り落とせるのか、お互いの腹の探り合いが、パーティーが始まる前から水面下で行われていた。
「グレアムさま、こちらでございます」
案内されたホールは、天井からいくつものまばゆい輝きを放つシャンデリアが吊るされていて、大理石の床を照らしている。壁には数々の名画が飾ってあって、目の肥えた招待客を楽しませていた。
そこにテリュースの姿が現れると、淑女たちから、悲鳴とも歓声ともつかない声が上がる。その声に、失礼のない程度のそっけないものであったが、テリュースが短く応える。
光を反射した時には黒よりも深い黒色に見えるミッドナイトブルーのディナースーツを着て、柔らかな栗色の髪をふわりと後ろに流した姿は、男性招待客ですら目が離せないほどの美貌だ。
そんなテリュースは、そのしぐさが淑女たちをドキドキさせると気づいていないのか、無自覚に前髪を掻き上げて、主催者のスティーブン・クルーニーを探そうとホール中に視線を流した。
今夜のテリュースへの招待は、元副大統領スティーブン・クルーニーからの直々の『指名』であることは、団長ロバートから聞いていたから、ひと言挨拶しておく必要があったのだ。
しかし、テリュースがクルーニーを探す必要などなかった。ホールにそれまでにないほどの大きな歓声が上がり、皆がお待ちかねのテリュース・グレアムが登場したのだとクルーニーも気づいたからだ。そして彼がホールにいる淑女たちの視線の先をたどると、そこにはキラキラと眩いテリュース・グレアムを見つけることができた。すぐに彼は、恰幅のよい腹を揺らしながら、テリュースのところへやってくると上機嫌で握手を求める。
「Mr.グレアム、お待ちしておりましたぞ」
すでに80歳に手が届こうかという年齢にも関わらず、クルーニーは肌艶がよかった。
「お招きいただきましてありがとうございます」
礼儀正しくテリュースが口を開く。
「以前、ストラスフォード劇場で、お会いしましたな。見事にフランス王を演じていらした」
「ありがとうございます。あの折は、閣下がロバート団長と歓談中に貴賓室に呼んで下さり、声をかけて下さいました」
「そうそう、そうでしたな。私がロバート君に、『フランス王を演じる新人のテリュース・グレアムとはどんな俳優なのか』と尋ねると彼は『私から話すよりも実際に会ってみて下さい』とすぐに君を呼んでくれましてね。後でワイフに、テリュース・グレアムと会ったと言ったら、そりゃぁ羨ましがられました」
クルーニーは、『人たらし狸』と称される話術で、ずっと年下のテリュースにも偉ぶることなく、気さくに話しかける。
「ワイフは、あの頃から熱烈なあなたのファンでしてね。今夜も、あなたのダンスパートナーの座を落札しようと、今朝から家中の金銀財宝をかき集めておりましたよ」
そんな冗談を口にすると、会場に設置してある舞台に目を向けた。
「おっと。そろそろ今夜のメインイベントが始まるようですな」
クルーニーの言葉通り、有名人たちから提供された愛用品や洋服などのオークションが終わったところだった。次に、司会をつとめる有名なコメディアンが高らかに宣言する。
「みなさま!お待たせいたしました。先ほど10分前に締め切りましたダンスパートナーのオークション結果を発表いたします!」
やがて楽団が華々しいファンファーレを奏でると、バルコニーや控室にいた招待客たちもザワザワと大ホールに集まってくる。
「今夜はなんと、各界からご参加いただきました38人の方々が高額で落札されました。」
つめかけた人々の大歓声。
「では落札額とお名前を呼ばせていただきますので、落札なさった男性はお相手の女性ところにダンスを誘いをに行き、ホールの中央に進み出てください。また、男性を落札なさった女性は、その場で男性からのお誘いをお待ちください」
そして。
誰もが知るスポーツ界のレジェンドや、人気ピアニスト、有名な画家などの名前と落札価格が次々に読み上げられ、ホールのあちらこちらから、落札額を聞いて驚くほぉという声や、きゃあという黄色い声、やったぞ〜という喜ぶ声があがる。
競り落とした者、競り落とされた者が、ホールに溢れて、また次の発表を待つ。
「さぁ、いよいよ、今夜の最高落札額を発表させていただきます。今夜最高額でダンスパートナーを競り落とした方は……。な、な、なんと、3名いらっしゃいます。偶然にも同額でパートナーを競り落としました3名の方々を発表させていただきます!」
賑やかにドラムロールが鳴り響いた後、司会者はもったいぶってホールにいる招待客を見渡してから、ゆっくりと宣言する。
「今夜、最高額3万ドルでダンスパートナーを落札したのは、Mr.スミス・バック!」
司会者が叫ぶと会場から拍手が巻き起こり、数人のグループの中にいたひとりの男性が、やったぞ、と言うように興奮して握り拳を天に突き上げた。不動産王スミス・バックだ。
「そして、そのダンスパートナーは、ブロードウェイの美の化身、Ms.エレノア・ベーカー!」
瞬間。
わあ~!おお〜!!とホール全体が大きな歓声に包まれる。人垣が割れて、その先に眩しい輝きを放つ大女優エレノア・ベーカーが優雅に微笑みながら現れ、自分を落札した男性に視線を投げた。
陶器のように滑らかな肌、珊瑚色の唇、宝石のような輝く瞳。そこにいるだけで周りが華やぐオーラ。大女優は、艶のある上質な絹で織られた布をたっぷりと使用したすみれ色のイブニングドレスを着て立っていた。1枚の絵のように美しいその姿。
スミス・バックは蒸気した顔で招待客の群れをかき分け、エレノア・ベーカーの前に走りより、大袈裟にボウ・アンド・スクレープをして見せた。
わぁ〜とまた歓声が上がる。
「Ms.エレノア」
スミス・バックは近寄ってそう言ったものの、目の前に立つエレノア・ベーカーが眩しくて、思わず息を呑み込む。感激のあまり、次の言葉が出てこなかった。
「どうか、私と一曲を」
そう言いたかったのにあがってしまい、スミス・バックは、真っ赤な顔をしてうなだれてしまう。そんな彼にエレノアは嫣然と微笑み、そっと腕をとった。そして、フロア中央へと向かう。
憤死しそうなスミス・バックにホールにいた人々が、好意的な応援の拍手を送る。
あんなに高額を出したのだから、楽しめるといいのだけど。ホール中の人がスミス・バックを応援する。
その様子をホールの反対側に立って見ていたテリュース。
ブロードウェイにいる以上。いや、こういった場に出てくる以上、いつかどこかで、母エレノアに遭遇することもあるだろうと思っていたテリュースだったから、この場に彼女がいることを驚きはしなかった。だが、演劇界で囁かれているエレノア・ベーカーとテリュースの関係を好奇の目で見る人間が、ここにもいるかもしれないと思うと気分は良くはなかった。
そんなテリュースだが、次に名前を呼ばれてハッと我に返る。
「……で、Mr.テリュース・グレアムを落札したのは、我らのクルーニー夫人!」
その声を聞くと、また別の華やかな一団から歓声が上がった。
「すごいわ!3万ドルも?」
「さすが、クルーニー夫人だわ」
グループの中にいたクルーニー夫人は、得意げに笑顔を浮かべた。
胸元が大きめに開いたドレスに、真珠をふんだんに使った髪飾り。普段より濃く施された化粧。
誰の目から見ても十分すぎるほど気合いが入った装いだった。すべては、テリュース・グレアムとのダンスのためなのだが、戦場にいる兵士のためのチャリティだと胸を張って言えることがこのイベントのミソでもあった。
落札されたテリュースがクルーニー夫人のところへゆっくりと歩み寄り、優雅にお辞儀をする。イギリス貴族テリュース・グレアムにとってこのような場での礼儀作法はお手のものではあったが、ひどく久しぶりのダンスでもあった。クルーニー夫人に短く言葉をかけ、手をとり広間の中央へ向かう。人混みが割れ、淑女たちから羨望と感嘆の声が上がった。
「テリュース、本当に素敵だわ」
テリュースにリードされ、手を取られた夫人は緊張で手が震えているが、そこは年の功で、注目の中満面の笑顔をたたえ、自らピタリとテリュースに寄り添う。テリュースが側にいることで、クルーニー夫人も一段と華やかなオーラに包まれていた。
「まぁ、あんなにピッタリ寄り添って。近すぎじゃないかしら」
「悔しいわ。わたくしももっと出せばよかった……」
ふたりを見つめる周囲の女性たちからたまらず、嫉妬の声も上がり、ホール全体がガヤガヤとざわめく……。
だが、そんなホールに司会者はかぶせてもうひとつの発表を始めた。
「そしてなんと!!今夜はもうひとかた、最高額の3万ドルで落札された方がいます!」
その発表に、ホールがまた静かになっていく。十分にホールが静かになったのを見計らって司会者が声を張り上げる。
「落札されたのは、Mr.レオン・ビアンカリエリ!落札したのは社交界の華、Ms.パオラ・フラーニ!」
テリュースに負けないほどの歓声が上がった。
「レオンよ!今夜も素敵だわ」
「でもやっぱり噂は本当だったのね。パオラ・フラーニが落札したわ」
NY社交界に彗星のごとく現れたレオンが、優雅な物腰でホール中の人々にゆっくりとお辞儀をした後、すぐ隣にいるパオラ・フラーニに手を差しのべ、彼女も当たり前のようにその手に自らの手を重ねる。そしてふたりはごく自然にホールの中央に進み出た。
と、そのタイミングで、楽団がワルツを奏ではじめる。優雅で美しいワルツ。
「さあ、彼らのダンスパートナーは決まってしまいましたが、パートナーは彼らだけではありません。紳士淑女のみなさま、目の前にいる素敵な人を誘って、今宵ダンスタイムを十分に楽しみください!」
司会者の声に、ホールにいる紳士たちはそれぞれ淑女たちにダンスを申し込みはじめた。
色とりどりの花が開くように、ホール全体に男女のペアが広がっていく。
ここからが本当の、今夜のパーティーの開幕だ。
踊りはじめてすぐに、クルーニー夫人は、テリュースの能力に驚いた。
俳優テリュースが、ただルックスが良いだけの男ではないと言うことはすでにわかっていたが、一緒にダンスをして、彼の凄さを痛感したのだ。
それは、そっけなさをカバーして余りあるダンスのパートナーとしての高い能力だった。
必要な時必要な力加減で女性を受け止め、踊りやすく導いてくれる力強さ。それでいて、お姫様のように大切にされていると感じる優しく甘いリード。優雅で華麗な自身の身のこなし。それでいて女性が美しく引き立つように、一歩控えた彼の振る舞い。おまけに、テリュースが側にいると自分まで華やかに見える効果。
すべてが完璧で、クルーニー夫人も長く社交界にいるが、これほどの逸材は見たことがないと感じるのだった。それは愛する夫、スティーブン・クルーニーですら、足元にも及ばないと認めざるを得ないほど。
だが。
やがてそんなテリュースとの至極のダンスに舞い上がって何曲も踊り続けていたクルーニー夫人だが、さすがに足が疲れてきて、テリュースの耳元で囁いた。
「テリュース。今夜はあなたのおかげで、とても素敵な夜だったわ。でもわたくし、そろそろダンスをおしまいにして、休憩することにするわ」
そう言って満足気に微笑むと、テリュースの『飲み物を』という問いを断り、控え室に引き上げていった。
その夜。ダンスパートナーとして競り落とされた人間は、他の誰かとダンスを踊ってはいけないルールになっている。だからテリュースは、自分の役目は終わったとひと息つくことにし、庭を見下ろす広いバルコニーにやってきた。会場の人々は階上の控え室で休憩しているのか、幸いバルコニーに人影はなかった。
ダンスの音楽は、まだ引き続きバルコニーにも漏れ聞こえていたが、建物の外は会場の熱気とはうってかわって涼しい空気が流れていた。
テリュースはタバコでもふかそうとポケットを探りながら、バルコニーの向こうに目をやる。そこには広い庭園がひろがっていて、屋敷の窓から漏れる明かりが、庭のこちら側を照らしているが、向こうは暗闇に溶け込んでいてよく見えなかった。
「よお、テリュース・グレアムさんよ」
突然。
後ろから男に声をかけられ、テリュースは声のした方に顔だけを向けた。
バルコニーに向かって大きく開け放たれたフランス窓のところに立っていたのは、レオン・ビアンカリエリ。すぐに先ほどの男だとテリュースにもわかった。確か、イタリア貴族で貿易商を営んでいると皆が囁いていたと頭の隅で思い出す。
「なぁ、あんた。なんでこんなところにいるんだ?」
レオンはホールで見せた優雅な佇まいからは想像できないほど、ぞんざいな口調でテリュースに話しかけた。
「……」
テリュースは、レオンが酔っ払っているのだろうと、それ以上絡まれないように、問いかけには答えず、また庭園に視線を戻した。
「なんだよ、無視か」
レオンの唇の端がほんの少し持ち上がり、薄笑いが浮かぶ。と次に、レオンはズカズカとテリュースの近くにやってきて、バルコニーの手すりにもたれかかった。そして、反対側を向いているテリュースの横顔にもう一度同じセリフを投げかけた。
「なぁ、こんなところにいるのはなぜなんだ?」
その問いに、テリュースはチラリとレオンを見て、面倒くさそうに答える。
「パーティーに招待されたからに決まっている」
だからなんだとでも言うように。
「んなこと、聞いちゃいねえ。俺が聞いているのは、事故の後、なんであんたはひとりでイギリスから帰ってきて、こんなところにいるのか?ってことだ」
「どういう意味だ。何が言いたい?」
新聞ででも読んだのか、レオンはテリュースがシーナ・センチュリオン号に乗っていて事故にあい、イギリスにいたことも知っているらしかった。しかし、だからなんだと言うんだ。テリュースは苛立ち始める。
「言いたいことがあるならハッキリ言え」
「ほお。じゃあ、これは知っているか?あんたが乗っていたシーナ・センチュリオン号が爆破され沈没した直後、俺は俺の貨物船でひとりの女をサウザンプトン港まで運んだ」
「……」
「その女は、ドイツのUボートがウヨウヨしている戦下の大西洋を渡り、命がけでイギリスに渡ったんだ……」
「……嘘だ」
テリュースは即座に否定した。
シーナ・センチュリオン号が爆破された後、アメリカ議会で、すべての民間船に渡航禁止が下されたことは誰もが知る事実だった。
「そんなことができるはずがない。すべての船が、大西洋を航行することを禁止されたはずだ」
テリュースは苦々しげに呟く。
「そうだよ。その通り。あの時は、客船も貨物船も全てクローズされていたさ。だからその女は、法を破って海を渡る俺たちの貨物船に乗せて欲しいと頼みに来たんだ」
「まさか」
「ああ。その『まさか』だ。その女は、生死もわからないある男を追いかけて海を渡ったんだ。風の噂では、その男は俳優をやっていると聞いてるぜ」
その言葉に。
ガバっと、いきなりテリュースが近づいて、レオンの胸元を締め上げる。
「詳しく話せ」
低く唸る。
「やっと本気になったか」
レオンはテリュースの腕を振り払い、一歩下がると、ペッと足元に唾を吐いた。
「その女の名前は、キャンディス・ホワイト・アンドレー。あんたのよく知る女だ」
テリュースは衝撃を受けたように言葉を失くす。
「キャンディ……が?」
「そうだ、キャンディはあんたを追いかけてイギリスに渡ったんだ。あんたの生死もわからねえのに、だ」
テリュースは、キャンディはアメリカ合衆国から看護師として派遣されてイギリスにいるのだと思い込んでいた。キャンディもそれを否定しなかった。だが、それは間違いで、キャンディは俺を追ってイギリスまでやって来たんだと?
あの時。
テリュースがベッドで目を覚ますと、側にいたキャンディ。事故の報を聞いて、アメリカから飛んできたと言うのか……。命がけで。
しかし。
そんな苦労をおくびにも出さず、笑っていたキャンディ。目を覚まさない俺の隣でどれだけ心細かっただろう。
キャンディはいつだってそうだ。自分の苦労は見せず、いつも笑顔で周りを思いやる、そんな人だ。
あの時、テリュースを追ってイギリスまで来たんだと教えてくれていたら……。それを知っていたら……。
いや、何が違ったというのだろう。判断が甘かった。あの時、何があろうともキャンディを行かせるべきではなかった。いや、そうじゃない。
すぐにふたりで出発するべきだったのだ。
悔やみきれない後悔に、ぎりぎりとテリュースの胸の奥が軋む。
「言え!キャンディは今どこにいるんだ!」
テリュースがレオンに詰め寄る。
「うるせえ、あんたにそれを尋ねる権利はねえ!」
今度はレオンが、テリュースの胸元を締め上げる。
「命がけであんたに会いにいった彼女に何をしたんだ?え?何を言ったんだ?なんであんたはひとりでイギリスからアメリカに戻ってきた?なぜ、彼女はここにいない?答えろよ!」
そう言ってテリュースの腹に渾身のカウンターパンチをお見舞いするレオン。
ぐっ……。
そのパンチに息ができず、身を屈めるテリュース。たが、反撃する気力もなかった。
そんなテリュースに、レオンは冷たく言い放つ。
「あんたはキャンディを手放したんだ。今度は俺が彼女を頂く。あんたは例の綺麗な婚約者と仲良くしているがいいさ」
そう言うとレオンはくるりと背を向けた。
その後ろ姿を見つめながら、テリュースはキャンディを探さなければならないと思った。自分が悪かったと謝らなければ。
レオンにやられたパンチがまだ効いていて、そこが痺れたように痛むテリュースは、空を仰いだ。
頭上には、黒に近い濃紺色の夜空と白い月の光。キャンディもどこかでこの月を見ているのだろうか?そう思うと胸を掻きむしられるような焦燥感に駆られるのだった。
とにかく、キャンディを探さなければ。イギリスでもアメリカでも。こんなことをしている場合ではない。テリュースの頭の中はそのことでいっぱいになった。
パーティーはまた続いていたが、テリュースはもうホールに戻るつもりはなかった。このままこっそり姿を消そうと、ひとめの多い正面玄関へは回らず、バルコニーの非常階段から庭へ降り立った。庭を抜けて、使用人のところへ行き、預けてある自分の車を回してもらおうと歩き始める。
しばらく行くと。
やがて闇の向こうから、くぐもった声が聞こえてきた。
「いいじゃないか。そんなつれないことを言わないでくれ」
隅々まで手入れの行き届いた庭園。その花壇の向こうにあるガゼボにふたつの姿形が見えた。薄灯りで顔は見えない。
「およしになって……」
「なあ。君だって俺が政界のドンと呼ばれていることは知っているだろう?俺の愛人になればこの先、もしかしたら大統領夫人も夢じゃないんだぞ」
妻帯者であるその男は、自らの理論が破綻していることも気づいておらず、酔っ払っているのか、ろれつが回っていなかった。
酔っ払った男と権力に群がる女か……。そんなことを思い、テリュースはそのまま素通りすることにした。
「こんなことをなさってはあなたのお名前に傷がつきますわ」
たが。
なぜか聞き覚えのある声。女がつけている香水なのか、花壇の花の香りなのか、ふわりと優しい香りがした。記憶のどこかにある「香り」
この香り……?
「いやいや、傷がつくはずがない。天下の大女優エレノア・ベーカーとのスキャンダルは望むところだ」
エレノア・ベーカー?
テリュースは聞こえてきた名前にぴくりと緊張し、その場に立ち止まった。
そして、ガゼボの周囲に広がる暗闇にまだなれない目を必死にこらす。もみあう影。
「いいから。おかたいことを言うなよ。もっとこっちに来ないか」
ベリッ。
洋服の生地が裂ける派手な音に、あと先考えず、闇に飛び込むテリュース。
そこに居たのは、美しい瞳に驚きを浮かべる母エレノアと酔っ払って赤ら顔の中年男だった。,
しかし、ふたりの前に仁王立ちしたものの、テリュースはなんと声をかければいいのかわからなかった。
「……」
「おやおや。誰かと思ったら、ストラスフォードの男前じゃないか。もうダンスは終わったのか?」
男は軽薄な笑みを口元に浮かべる。シャツが太い首にめり込み、ディナースーツの上着ボタンがはち切れそうなほどの太った腹を抱えた醜悪な男だった。
「君には関係ないだろう?こっちは取り込み中なんだ。邪魔しないでくれ」
テリュースの顔は知っているようだが、演劇界で囁かれているエレノア・ベーカーとの関係は知らないに違いなかった。
テリュースの目がすっと細められ、その視線が、無惨に破れたドレスに動いた。
エレノアの柔らかなシフォンのドレスは、二の腕ところで無惨に裂けて白い肌が見えていた。
「やめないか」
冷え冷えとしたテリュースの瞳。低く唸るように吐き出す言葉。
「一介の役者ふぜいが正義の味方きどりか?悪いことは言わない。おとなしくあっちへ行けっ!」
ぞんざいにしっしとテリュースを追い払うように手を振る。
「やめろと言っているだろう」
テリュースは反射的に叫んだ。
「うるさいっ!だまれっ!お前……」
男が発した言葉はそこまでだった。
鞭のように引き締まったテリュースが振るう拳が、風を切る音を立てて、男の顔面に直撃したのだ。
「げほっ……」
鼻血が飛び散り、男はそのままの姿勢で後ろにぶっ倒れ、動かなくなった。
「Sir.デービス!」
エレノア・ベーカーが駆け寄ろうとするのをテリュースは彼女の腕をとってとめる。
「放っておけばいい」
そう言ってエレノアを見下ろしたテリュースの眉間のシワは和らぎ、もういつものテリュース・グレアムの顔に戻っていた。
「後でヤツが目を覚ましても、恥ずかしくてここで起こったことは誰にも言えやしないさ」
「……テリィ」
ひと呼吸したエレノアは、テリュースを見上げて囁く。
「私は大丈夫だから早く行ってちょうだい。こんなことはよくあるの」
少女と言っていい頃から、ショービジネスの世界で生きてきた母。
その言葉を聞くと、テリュースは少しだけ切なげに表情を歪め、自分と同じ母親のブルーグレーの瞳をのぞきこんだ。
「家まで送るよ、母さん。そんな格好じゃ人前に出たくないだろう」
テリュースの視線が、エレノア・ベーカーの無惨に引きちぎられたドレスに動く。
きっと彼女はこうやって、美しい仮面の下に色んな苦労をしまいこんできたのだろう。テリュースは、胸がチクリと刺されたように痛んだ。そして、さっきまでキャンディを探さなければと頭に血がのぼっていた気持ちに冷静さが戻ってくる。
何をやっているんだ俺は。テリュースは自らにカツを入れる。
今キャンディを探しだしても結局は、彼女に全てを捨てさせ、辛い苦労を強いるだけだ。RSCのプリンシパルになって、イギリス王家にも、いや誰にも口を挟ませない地位を手に入れると誓ったではないか。王家に連なるグランチェスターの血を引く以上、それ以外に道はないとわかっているはずなのに。
テリュースは、ふぅと深く息を吐いた。
「さぁ、行こう」
「いいえ、テリィ。本当に……、もう大丈夫だから」
誰かに見られたら、密かに囁かれていたふたりに関する噂が真実だったのだと証明されてしまう。テリュース・グレアムは、エレノア・ベーカーの隠し子だと。
「こんなところを……。いえ、私たちが一緒にいるところを見られたら、あなたにとって良くないわ」
エレノア・ベーカーは、美しい頭を優雅に振った。そして、ぴんと背筋を伸ばし、いつもの凛とした女優に立ち返ると、さぁ行ってと言うようにテリュースに微笑んだ。
だが、そんなエレノアに、テリュースは事も無げに言う。
「俺は構わない。連中が何を言おうと」
母さんとの関係を知られても俺は構わない。その瞳はそう言っていた。
「母さんが嫌でなければだが」
テリュースは優しく付け加えた。
予期せぬ言葉に、エレノアは息を呑む。
テリュースを手放したことをずっと後悔し、母親として息子に何かしてやりたいと思ってきたエレノアだったが、テリュースとの関係を隠している以上、表だって何かをすることは許されなかった。テリュースは、自分との関係を隠しておきたいのだろうとも思っていた。
だが。テリュースは、エレノアとの関係を隠すつもりはないようだ。
ブロードウェイの俳優として生きている息子。マイ・ガールでも、リチャード三世でも評判を呼び、マスコミたちはテリュースの完全復活を大々的に報じていた。
今なら、エレノア・ベーカーの息子だと知られたとしても、ブロードウェイの俳優としてスキャンダルに潰されることはないのかもしれなかった。
彼女の瞳に涙が浮かび上がる。
「ありがとう、助かるわ。今夜はマネジャーが一緒ではないの」
テリュースは、素早く自分のジャケットを脱いで彼女の肩にそっとかける。何より、早くエレノアをこの場から連れ出さなければ。
「こっちだ。」
親指でぐいと示す。そして幸いにも車まで誰にも遭遇することはなかった。
大女優エレノア・ベーカーの住居は、ニューヨーク高級街にある高層ビルのペントハウス。そのペントハウスの住人、すなわちエレノアにだけ許された1台の鍵付のエレベーターが最上階に停まると、そこがビルの中だということを忘れてしまいそうな様々な花々が目に飛び込んでくる。ファンやスポンサー、関係者たちから贈られた花籠が一面の花園のようにエレベーターホールに降り立った人を迎えてくれる。
着替えをしてくると姿を消したエレノア・ベーカーと入れ違うようにして、年老いた家政婦が客間に飲み物を運んできた。目の前にふわりと香る紅茶とエレノアお気に入りの水、シャテルドンが用意された。長年エレノアの家で勤めてきた家政婦は、目の前の男がエレノアの息子であることもわかっているのだろう、目を赤くして、だが、何も言わずにすぐに部屋を出ていく。
母を待つ間、通された客間で、テリュースは出されたシャテルドンを飲みながら、ソファに座り、部屋を眺めていた。
その部屋は、まさに女優エレノア・ベーカーの客間に相応しく、贅を尽くした豪華で煌びやかな調度品で飾られていた。
中でも天井の高い部屋の壁一面に飾られているエレノア本人の巨大な肖像画は息子のテリュースから見ても美しかった。高く結い上げた髪、形の良い目、薔薇色の頬、通った鼻筋、形の良い唇。
夢中で眺めていたのか、ノックの音に気づかなかったテリュースが、後ろからかけられた声に振り返る。
「それは、ナナを演(や)っていた頃のものなの」
ゆったりとした優雅な部屋着に着替えたエレノアが、頬に緊張を浮かべながら入ってくる。ブロードウェーNo.1の美貌を謳われる大女優も息子とこうしてふたりきりになるのは舞台に上がるよりも緊張するようだ。
「あの時は、初めての悪女役で大変だったの。体重が4キロも減ってしまったのよ」
そんなことを言いながら、テリュースの向かい側のソファに座り、テリュースを見つめる。
あのスコットランドの夏の日。
息子、テリュースは。
彫像のように整った目鼻立ち、伏せがちで影ができる長いまつ毛。あの時は、どこか甘く中性的な雰囲気の美貌を見せる息子だったが、今目の前にいるのは、内面から溢れるばかりの輝きを放つ、自信に溢れた精悍な男性へと変貌を遂げていた。
これほどまでに彼を変えた何か。
ロックスタウン後、スザナ・マーロウの元へ戻り、彼女と共にいる息子。だがその変貌が、彼女の影響だとは考えられなかった。
どうしてもそれは困難な想像なのだが、エレノアはなぜか、キャンディのことを思い浮かべてしまった。こんなにもテリュースの内面を変えることのできる人は彼女しかいないと……。
もしかしたら、ロックスタウンの後、テリュースはキャンディとどこかで再会したのではないかと思ったが、すぐにそんなことを思う自分を戒めた。そんなことは物理的にむりだと。それに、もしそうなら、ふたりは今一緒にいるはずだと悲しく思った。
エレノアは、目の前の息子に意識を戻すとテリュースの手の甲に残る傷痕に視線を注いだ。
「テリィ、体の具合はどう?痛まない?」
「ああ。もう大丈夫なんだ」
エレノアを安心させるようにテリュースが優しく答える。
「そう。よかったわ。本当に……」
エレノアの言葉が微かに震えている。
「母さんにも心配をかけてすまなかった」
テリュースがそう言った後、長い沈黙が流れる。お互いにシャテルドンの入ったグラスを眺める。
本当に、長い長い沈黙。
暖炉の火を見つめるスコットランドのあの夏の日のように。
やがて。
沈黙を破ったのはテリュースだった。
「……父さんに会ったよ」
少しだけかすれた声。
「リチャードに……?」
「ああ。しばらく本宅で静養していたんだ」
「……そう」
そして、また沈黙が訪れる。思い切ってテリュースは尋ねてみる。
「父さんの出生の秘密……、いや、生い立ちを知っているか?」
テリュースがコースターに置いたシャテルドンの入ったグラスがカチャッと音を立てた。テリュースは、父の秘密をエレノアがどこまで知っているのか、気になった。
「ええ。彼から聞いているわ。リチャードはそんなこともあなたに話したのね」
エレノアはほとんど吐息と同じくらいの小さな囁やきで答えた。あのスコットランドの夏の日にふたりが話さなかったこと。それは父リチャードのことだった。
「父さんがRSCの俳優をしていたとも聞いたよ。そこで母さんと知り合ったと」
エレノアは、ふっと寂しげに微笑む。
今やグランチェスター公爵であるリチャードは、かつてRSCで俳優していたことは語りたくないのだと思っていたエレノアだったから、彼がテリュースにその話をしたのは驚きだった。
「それに……。母さんが知らないことも、俺は父さんから聞いたよ」
父さんが、母さんを捨てたのは、母さんと俺を守るためだったんだ。
だが、それを言ったところでどうなるのだろう。それを言えば、エレノアをリチャードへの愛に縛り付けることになる。そう思うとテリュースはリチャードから聞いたことを進んで話そうとは思わなかった。
それに。エレノアの最愛の人に会えた過程も、その後も、彼女にとって幸せなものばかりではなかったとテリュースもわかっている。例えどのような真実を聞こうとも、揺るがない現実があるのだから聞けばエレノアが余計に辛くなるかもしれない。
それを理解しているのか、エレノアもテリュースの言う『知らないこと』が何であるのか、詳しく尋ねようとはしなかった。
ただひとつだけ、エレノアは短く尋ねる。
「テリィ、リチャードからその話を聞いてあなたは良かったと思う?知って傷つかなかった?」
「ああ。もっと早く知っていたらよかったと思った。そうすればあの家での生活がもっと別の物になっていたと思う」
それを聞いてエレノアは、泣き出しそうな表情になったが、必死に堪え、静かに息をする。羽織っていた部屋着の前を手繰り寄せ、どくんどくんと波打つ心臓を温めてみる。
やがて。
「テリィ、あなたに渡したい物があるの。少し待っていて」
そう言って部屋を出ていったエレノアは、しばらくするとひと目で年代物だとわかるアンティークの宝石箱を持って戻ってきた。そして、テリュースの前のテーブルにそっと置く。
「これは……」
「リチャードからもらった宝石箱なの」
「父さんに?」
「そう。リチャードと最後に会った時、私に持っていてくれと渡してくれた物よ。この宝石箱を持っていると幸せになるんだって言っていたわ」
大ぶりな象嵌細工の宝石箱だった。精巧な技術で作られた虹色に輝くマザーオブパール、小さいけれど深く豊かな輝きを放つ数々の宝石。
宝石を入れるためと言うより、手紙や書類を入れるための用途で作られたものだろうが、それ自体がかなり高価なものだとわかる素晴らしいアンティークだった。
だが。
グランチェスター公爵家にある所蔵品は、美術館にも負けないほどの宝の山だ。『持っていれば幸せになる宝石箱』だなんぞ、安っぽい台詞を添えているが、別れる女に渡す手切れ金としては安すぎないかと、テリュースはリチャードに内心毒づく。
『まあ、借り物のグランチェスター公爵じゃあ仕方ないのか』
まったく興味は湧かなかったが、テリュースはその宝石箱の蓋を開けてみる。
すると、その蓋の裏面に、ルビーで模った赤い薔薇が現れた。
「これは……」
テリュースは息を飲んだ。
もしやこれは……。
その薔薇をじっと見つめる。
そう。
テリュースが幼い頃。
自宅のライブラリーで読んだグランチェスター公爵家の創設からの歴史が書かれた全5巻にも及ぶ歴史書。
その中にあった初代グランチェスター公爵夫人セシリーが実家から持参した『宝石箱』かもしれないと思ったのだ。
「テリィ、この宝石箱について何か知っているの?」
エレノアが尋ねる。
「いや。詳しくは」
テリュースは確証はないが、と前置きをしてグランチェスター公爵家の歴史書で読んだ宝石箱について話し始める。
「グランチェスター公爵家は、1487年に薔薇戦争が終わり、ヨーク家のヘンリーとランカスター家のセシリーが婚姻して新たに興された公爵家なんだ。当時としては珍しく、政略結婚でなく、愛し合って結ばれたと歴史書には書いてあった」
30年にも及ぶ王の座を巡る争いに、当時の貴族も真っ二つに別れ、敵味方になって戦ったことは誰もが知るところだ。
「だが、その話にはまた別の、いやその話の前に、もうひとつの物語があるんだ。その初代グランチェスター公爵夫人セシリーの母親、エリザベスは、ヨーク家のエドマンドと幼なじみで恋仲だったんだが、薔薇戦争のさなか、彼らは引き裂かれ、それぞれ同じ派閥の貴族と政略結婚をさせられたそうだ」
そのセシリーの母親エリザベスは、『ランカスターの紅い薔薇』と呼ばれた美しい女性だとも歴史書は語っていた。
「そのエドマンドが、他の男に嫁いでいくエリザベスに手紙を入れて贈ったのが、象嵌細工の宝石箱なんだ。その宝石箱は、ヨーク家を象徴する白い真珠を抱くマザーオブパールと赤い薔薇を模ったルビー、数々の小さな宝石が散りばめられたと書いてあった」
テリュースの言葉に、じっと耳をかたむけるエレノア。
「やがてその宝石箱は、エリザベスから娘に引き継がれ、ヨーク家に嫁ぐセシリーはそれを嫁入り道具のひとつとして持参したと書かれていた。それ以来、その宝石箱は、代々グランチェスター公爵夫人に引き継がれたそうだ」
時を越えて、ヨーク家とランカスター家のふたりを結びつけた宝石箱。それにはそのような物語があったのだ。
持っている人が幸せになる幸運の宝石箱とは愛する人と結ばれるという意味だった。それをエレノアに贈ったリチャード。
そうだったのか。
テリュースは今、全てを理解した。
先代の公爵からもらったふたつの物のうち、ひとつは、すでに人に渡したとリチャードは言っていたが、それがエレノアに渡したこの象嵌細工の宝石箱だったのだ。
テリュースは母親にそっと言う。
「父さんの気持ちはわかっただろう?それなのにこの宝石箱を俺が貰うことはできない」
何もしてやれないエレノアに、願いを込めてリチャードが贈った宝石箱。
だか、エレノアはきっぱりと言う。
「いいえ。だからこそ、あなたが持っていて」
ヨーク家とランカスター家のふたりのように、あなたが愛する人と結ばれるように。
あなたの愛する人がその宝石箱を引き継げるように。
エレノアの瞳がそう語りかけていた。
そして。
その想いを受けて、テリュースは神に祈った。
いつか。
どうかこの宝石箱をキャンディに渡すことができるようにと。
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