港へと続く坂道を登りきった高台にあるチューダー様式の貴族の別邸。港を見下ろす今は仮設病院となっているその屋敷にはサウザンプトンの街のどこよりも早く『朝の光』が届けられる。
春に差し掛かる少し前の美しい冬の朝。
昨日、一日中降った雨の雫が、貴婦人の宝石のようにサウザンプトンの街を彩り、港の向こうに広がる海からのぞいた幼い朝の太陽に照らされて、透明な煌めきを放ち始めていた。風に吹かれ、濡れた葉からこぼれ落ちた光の粒が、キラキラと輝いている。
その朝、ベッドの中で目覚めたテリュースは、病室が明るいことに驚いた。
イギリスの冬の夜明けは遅く、かなり寝坊でもしない限り、朝のまぶしい日差しの中で目覚めるということは考えられない。
ましてやここでは夕方になると毎日キャンディが病室にきて、厚手のカーテンを閉めていく。そして朝はまたキャンディがニコニコと病室にやってきてカーテンを開けてくれるのだ。だから朝の日差しの中で目覚めるということは今まで1度もなかった。
それなのに、いつもならまだ薄暗いはずの室内に、レースのカーテン越しの柔らかな光がぼんやりと差し込んでいる。
もう今朝はキャンディが来てカーテンを開けてくれたのか?それならなぜ俺を起こさなかった?テリュースは一瞬そんなことを思うが、すぐにその理由を理解して微笑んだ。
キャンディが椅子に腰掛け、テリュースの眠るベッドの端に、ちょこんと頭を乗せて眠っているのだ。こちらへ顔を向け、自分の腕を枕にして。どうやら昨夜はカーテンも閉めずにそのままそこで眠り込んでしまったようだ。いつ来たのか、寝息が届くくらい近くにキャンディがいるのに、テリュースも薬が効いていて一晩中気づかずに眠っていた。常駐している看護師たちも探しには来なかったようだ。
『キャンディ……、こんなところで寝るなんて……。風邪をひくぞ』
テリュースはキャンディを起こさないようにそっと身体を動かして半身を起こすと、ベッドサイドに畳んであった小さめのブランケットをキャンディの肩にかけてやる。
この優しい空間にふたりきり。テリュースは思いが溢れて、胸の中がいっぱいになった。
キャンディが手を伸ばせば届くほど近くにいる。疲れて寝入ってしまったのだろう。もう少しこのまま眠らせてやりたい。
テリュースは、キャンディの手をたぐり寄せ、抱き締めてしまいたい衝動を我慢して、キャンディの寝顔をじっと見つめる。
レースのカーテン越しの薄い朝日に透けるキャンディの金色の髪、薔薇色の頬、キャンディの白衣姿はテリュースの視界の中でそこだけ輝いて見える。
そこにいる人はテリュースにとって他の誰とも違っている。どこにいても、彼女だけが特別になる。雨の日も晴れの日も、寒い日も暑い日も彼女だけが特別。その気持ちは永遠に変わらないだろうとテリュースは思う。
そんなことを思っているとやがて母屋の方から話し声といくつかの足音がパタパタ近づいてくるのに気がついた。
離れの棟にある1番奧まったテリュースの病室の手前には、親子の入っている病室と老女のいる病室があるとキャンディが言っていた。どうか、その足音がそのどちらかの病室の前で止まるようにとテリュースは祈った。
ここへは来るな。
そんなテリュースの願いをよそに、足音はテリュースの病室の前で止まり、ノックの後バタンとドアが開いた。
「失礼します」
そう言ってボランティア看護師たち4人が無遠慮にどやどやと部屋に入ってくる。
こんな時間になんの用だ?
テリュースはいぶかしげに彼らを見つめた。
自宅から通いでやってくるボランティア看護師は毎日朝早くから食事を作り、掃除や洗濯を担う。部屋の掃除を口実にしたり、用事はないかとチョロチョロ顔を出す彼女たちも、さすがにこんなに早い時間にテリュースの部屋にやってきたことはなかった。つまり今朝の目的はテリュースではない。彼女たちは素早く病室内を見渡し、キャンディの寝姿を見つけると、ほらねとでも言うようにお互いに目配せした。
「やっぱり、ここにいたんですね、キャンディスさん」
部屋に響くその声にキャンディはパチリと瞼を開く。しかし、一瞬どこかわからなかったようで、キョロキョロとまわりをみて、そこがテリュースの病室で、自分が一晩中眠りこけていたことに気づいた。
「わたし、こんなところで寝ちゃったのね」
キャンディは、寝起きの少しかすれた声でそう言って、猫のように目をこすって大きくのびをする。そして、彼女たちを見てすまなさそうに言った。
「ごめんなさい。すぐ行きますね」
正規の看護師と資格を持たないボランティア看護師は基本的に仕事は被らない。本来ならキャンディが彼女たちに呼びに来られることはなかったのだが。
「あの、ちょっとお伺いしてもいいですか?」
ひとりが、少しだけ緊張したようにキャンディに問いかける。四人揃って部屋に来たのはみなそれが聞きたかったようだ。
「ええ、もちろんよ。なあに?」
キャンディはそう屈託なく答えて椅子から立ち上がった。そして肩にかけてあるブランケットに気づくとテリュースがかけてくれたのだと微笑みを返してからそれを畳み、ベッドサイドにそっと置いた。
「おふたりは……、キャンディスさんとテリュースさんはどんな関係なんですか?」
「え?テリィと?」
「ほら、それ。テリィって親しげに呼んでらっしゃるし、テリュースさんもキャンディスさんには別人みたいに打ち解けている感じだし」
ボランティア看護師たちは、自分たちには冷たいテリュースがキャンディだ
けには軽口を叩いていることも知っているらしかった。
「その様子じゃあ、キャンディスさんは一晩中、テリュースさんの病室にいたんですよね?こんな……、男性の病室で一晩中過ごすなんて非常識じゃないんですか?」
その口調にはキャンディを咎めるような響きがあった。
「……それが何か、君たちに関係があるのか?」
テリュースの冷たく低い声。
「私たち、テリュースさんのことを心配していて……」
「心配?俺がそんなことを頼んだか?」
「……いっ、いいえ。頼まれたわけじゃないんですけど……」
「……ったく、ごちゃごちゃうるせーな」
“怒り”は、痛む身体を動かす原動力になる。テリュースは毛布を身体からはがしてベッドから降り、立ち上がるとキャンディの腕をつかんで庇うように自分のそばに引き寄せた。氷と揶揄されるテリュースの眼差しが4人を射ぬく。
「俺とキャンディがどんな関係か、君たちに答える必要があるのか?どんな権限があってそんなことを聞く?」
ブルーグレーの冷ややかな瞳に、彼女たちが凍りつき、泣きそうな表情になるのを見てキャンディが慌ててテリュースにとりなすように言った。
「テリィ、みんなあなたのことを心配してくれてるのよ。きっと私たちのことをちゃんと話せばすぐに安心してもらえるわ」
キャンディは、大丈夫だからとでも言うようにテリュースを見上げて微笑みかけてから四人に答える。
「テリィとはロンドンの学校にいた頃の知り合いなの。同じ学校で過ごしたものだからつい学生気分になっちゃって」
キャンディはセント・ポール学院にいた頃からテリュースの近くにいると女の子たちが刺々しい視線を向けてきたことを思い出す。テリュースのそばに居られる女の子は特別。それは嫉妬の対象なのだ。
「でも他にも患者さんがいるのにそんな風に思わせてしまったら看護師として失格ね。十分気をつけます」
大部屋でなく、テリィがいるのは個室だからと気を抜いていたかもしれない。キャンディは反省して素直に謝った。
その言葉に、
「なんだ、おふたりは同じ学校だったんですか」
「だからそんなに親しいんですね」
と安堵のため息を漏らす四人。
「トーマス先生もキャンディス君はグレアム氏を看護するためにここへ来たんだっておっしゃっていたし、もしかしてキャンディスさんが押しかけファンなんじゃないかと心配していたんです」
「そうそう。ファンと言われたらテリュースさんだって嫌でも断れないんじゃないかって」
そして、テリュースの機嫌をとるようにつけ加えた。
「不躾(ぶしつけ)なことをうかがってすみませんでした。でも決して興味本位じゃなかったんです。テリュースさんには婚約者がいらっしゃるって聞いたので、内心お困りなんじゃないかって私たちすごく心配していたんですよ」
「ホントホント。そうじゃないならよかったわ」
その言葉に。テリュースは身体の中の血液がカッと逆流するような気持ちがした。
『婚約者がいる』
キャンディに聞かせたくない言葉。いやそうではない。テリュースが聞きたくない言葉だった。
「用がすんだのなら、今すぐこの部屋から出ていけ!」
だが、テリュースにはまだつけ加えなければならないことがあった。
「看護師が患者の病室にいることを色々と邪推する人間なんて最低だな。反吐が出る。今後いっさい俺たちに構うな!」
テリュースがそんなセリフを口にするのはセント・ポール学院以来だった。ブロードウェイではそっけないとか無愛想だとか言われているものの、ファンに囲まれてもみくちゃにされ、ひどい時には髪の毛を引っ張られたりしても『忍』の一字のテリュースだったが、キャンディが絡むと直情的になる。良くも悪くもあの頃に戻ってしまうのだった。
「さ……、さあ、朝の準備をしなくちゃ」
彼女たちはテリュースにキツイ言葉を投げられたものの、キャンディの説明に、なんだ、それだけの関係なのかとすっきりした気分で意気揚々と引き上げていく。
四人が立ち去ると長い沈黙が部屋を包んだ。彼女たちの言葉がふたりの心をえぐる。
先に口を開いたのはキャンディ。
キャンディは酷く動揺したが、それをおくびにも出さなかった。
「テリィもお腹すいたでしょ。私もお腹がペコペコよ。さぁ、朝御飯の前にお仕事してこなくっちゃ」
そう言ってテリュースに向かってニッコリ笑うとテリュースの両腕に優しく手をかけてベッドに寝るように誘導した。
「ほら、テリィはもう少しおとなしーく寝て待っていてね」
できるだけいつもの調子に聞こえるようにと出した声音。
「・・・・・・」
テリュースが無言でベッドに横たわると毛布を肩口までかけてやり、あとは返事も待たず、素早く廊下に出てドアを閉めるとキャンディは倒れるようにドアにもたれかかった。
『テリュースさんには婚約者がいて』
他人の口から聞かされる言葉は、自分で自分に言い聞かせるより、はるかに重くキャンディの心にのしかかった。
そんなのわかっていたじゃない、バカなキャンディ。テリィがどんなに懐かしくて親しくしてくれても、彼はブロードウェイの俳優で、婚約者のいる男性。セント・ポール学院にいたあの頃の私たちじゃないわ。キャンディはそうやってわざと自分を傷つける言葉を使うことで冷静になろうとしていた。
ここへ来たのは。ここへ居られるのは。
『看護師だから』
看護師として一線を引かないとテリィに要らぬ迷惑をかけてしまう、キャンディはそう思ってひどく反省するのだった。
そんなことがあってから彼女たちは、テリュースの部屋に顔を出すのは控えるようになったが、その代わりキャンディにテリュースの学生時代について聞
きたがるようになった。
「学生時代のテリュースさんって、どんな感じだったんですか?」
「その頃から俳優を目指していらしたの?」
「彼って学生時代に付き合っていた彼女はいたの?好きな女性のタイプって知ってる?」
質問ぜめにしてきた。
キャンディは、彼が女子たちから憧れられていたこと、髪型はあの頃と一緒であること、当たり障りのない話題で煙にまくのだった。
キャンディが姿を現すと甲板で荷物の積み込み作業のチェックをしていたグインは部下のひとりにそれを代わらせ、すぐにキャンディのところにやってきた。
「やぁ、キャンディさん。その後”例の人”の具合はどうですか?」
カンのいいグインは、キャンディの思い人が男性であることはとっくにお見通しであったし、もしかしたらテリュース・グレアムという俳優であることもわかっているのかも知れないが、”例の人”と呼び、決してキャンディに余計な詮索はしなかった。
「ありがとう。日に日によくなっているわ。傷口も化膿せずに塞がってきているし、まだ杖をついてるけど歩けるようになって、先生も順調に良くなってるっておっしゃってるの」
日頃から舞台に上がるため鍛えた身体があればこそのテリュースの驚異の回復力だった。
「そりゃあ、よかったよかった。そんなら全快もすぐでしょう」
『会いたかった人を見つけた』と報告に来た時にもグインは自分のことのように喜んでくれ、柄にもなく神様は見ていてくださるもんだと呟いて、部下から何を似合わないことを言ってるんだとつっこまれる始末だった。
今日もニコニコとキャンディの報告を聞いていたが、やがてグインは笑顔をおさめ、手招きをするようにして甲板の隅にキャンディを連れていくと急に声のトーンを落とした。
「キャンディさん、ちょっと心配なことがありまして」
「心配って?」
「実は、イギリス王室の王太后がサウザンプトンを慰問なさると噂が流れているんです。そうなると海の方の警戒も一層厳しくなるんでその前に俺たちは出港したいと考えてるんですが……、キャンディさんをおひとりここに残していいものか、ちょっと……」
「グインさん、何か感じることがあるのね。あなたがそう思うのならたぶん、それは正しいんだと私にもわかるわ。でも、だからって私はここを動けないの。感じたことをすべて教えてもらえる?情報があればあるほど戦いは有利に動くってレオンも言ってたから」
その言葉を聞いてグインが、ワハハと愉快そうに笑う。
「ちぇっ。キャンディさんにはかなわねえな」
道理であのレオンが気に入るはずだ。肝が座ってらあ。
「実は、この前キャンディさんがここへいらした日のことなんですが、帰られた後、部下のジャンが船から降りたところで、知らないじいさんに完璧なキングスイングリッシュで話しかけられたそうなんです。で、そのじいさんが『キャンディという女性を知っているか?』と尋ねてきたと」
グインはキャンディのことを名前くらいしか知らなかったし、部下たちにもキャンディのことを『レオンの客』としか話していなかった。
「ジャンは『キャンディという名前の女性は知っているが、それがあなたのいうキャンディという人かどうかはわからない』と答えたらしいんです。するとそのじいさんは次に『あなたのおっしゃるキャンディさんは、看護師か?』と尋ねてきたんでジャンは『船の中で気分が悪くなったヤツの面倒をみてもらったんで看護師に違いない』と答えちまったそうなんです。そしてキャンディさんの髪の毛や瞳の色まで話したらしくて……。本当にすみません」
グインはレオンと共に裏の社会にも通じる男。情報をもらせばそれだけ、不利になることがあるとわかっていた。だから部下が口を滑らせてしまったことに責任を感じているらしく、申し訳なさそうに口ごもった。
「そのじいさんの風体や言葉遣いから、ジャンは警察や軍の関係者ではないはずだと言ってるんですが……。アメリカ側に提出した乗員名簿は俺のミスとして何かあれば庇えるとしても、そもそもなんでキャンディさんを調べているのか目的がわからんことには対処もできなくて……」
そんなグインにキャンディは明るく言う。
「全然大丈夫よ、グインさん。だって、全部本当のことじゃない。本当のことを伝えて困ることなんてないもの。ジャンは全然悪くないわ」
そう言いつつ、キャンディは、その男性は誰だろう?と心当たりを考える。イギリスに知り合いはいないはずだし、じいさんと言われるくらいだからセント・ポール学院の知り合いとも思えない。
パティのパパとか?アードレー家の関係者?
『まさかね。でも誰でもいいわ。困ることなんてないもの』
そう思ってから、ふと。
『もしそれがマスコミだったら?』
そんなことが頭をよぎりキャンディは少し不安になる。
『ブロードウェイの人気俳優に近しい看護師!』なんて書かれたらテリィに迷惑になるわ。
そんなことを思うキャンディは、自分がテリュースの恋人と書き立てられる可能性を1ミリも想像していなかった。キャンディにとってマスコミとは、『興味を引くために”少しだけ盛る”人たち』くらいしか思っていなかったから。
だが真実は、”当たらずとも結果は遠からず”であった。
アメリカではマスコミを押さえられなくても、イギリスではテリュースの父親リチャード・D・グランチェスター公爵の力を持ってすれば、マスコミの力を封じることなど造作もないことであったから。
現に、グランチェスター公爵が把握していなかった『テリュース・グレアムの生存情報』の第一報は新聞に取りざたされていたが、その後の情報は完全に握りつぶされ、イギリス国内の者がテリュースの名前を見ることはなかった。だが、『イギリス』がマスコミを通してテリュースを広告塔として使いたいと考えているのも事実であった。
キャンディは、イギリスを去るグインたちにお礼を言って屋敷に戻ることにした。
「本当に色々ありがとう。また会いましょう。レオンによろしく伝えてね」
テリィが待っているだろう、そう思うと帰りの坂道もキャンディは苦にならなかった。
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