甲板から聞こえた声にすぐに反応したレオンが、操舵室から出て下を見おろすとそこには既にふたりの警官の姿があった。
「よぉ!レオン。元気そうだな。」
そのうちのひとりがレオンを見上げて、ぶっきらぼうだが親しげに声をかける。ついでに立ち寄ったからといった風情で、物々しい雰囲気はない。
「やぁ、クラークさん。」
レオンは下に向かって叫び返した後、不安げなキャンディを振り返ると安心させるように『心配いらない。知り合いの警官だから。』と低くささやいた。
そして、操舵室に戻るともうひとつ革袋を持ってきて、キャンディを伴って甲板に降りていく。
そして、
「ご無沙汰しています。今日も暑いですねー。」
そう言いながらレオンはさりげなく革の袋を警官に渡すと彼はそれを当たり前のように受けとり制服の内ポケットにしまいこんだ。
賄賂?
キャンディの瞳が揺れるが、周りの男たちはそのやり取りをまったく意に介していない様子だ。
『冥土の沙汰も金次第。大抵のことは金で解決できる。』
歪んだ考えだが、シカゴの裏社会にも通じる彼らの中では、それがまかり通っていた。それに、毒と蜜とをうまく混ぜ、相手の心の中にスルリと入り込んで人をたらしこむレオンの手腕は天下一品だった。
「お前ら、ここはいいから作業に戻ってくれ。」
レオンの言葉に、男たちはそれぞれの作業に戻っていく。
彼らが散っていくのを確かめた警官はレオンに一歩近づき、顔を寄せた。
「レオン、実は、ちょっと耳に入れておきたいニュースがあるんだ。」
「いつもありがとうございます。また何か?」
レオンが明日の天気を尋ねるように口にする。やはり警官の情報は役立つことが多かったのだが、それを気取られて必要以上に足元をみられるのは避けたかった。
「ああ、今朝幹部会で出た話なんだが、お前も知っておいた方がいいだろうと思ってな。この船はまたイギリスへ行くのか?」
「ええ、その予定です。大陸の港はどこもみなキナ臭いですからね。でも実は、今回からいつも使っていたイミンガム港を避け、サウザンプトン港に運ぶ予定です。それが何か?」
イミンガム港近くの海にドイツのUボートが現れたと聞き、レオンは大陸側の港を避けたのだった。その港への変更手続きはかなり大変だったのだが。
「あ、いや。そうではなくて、心配しているのは出港の時期なんだ。今回は、いつ出港を?」
「実のところ、まだ未定なんです。予定は明後日だったんですが、まだ肝心の積み荷の一部が届いていないんでどうなるか。」
そう言ってレオンは、船倉の方に視線を流した。実は、武器商人として商いをするレオンだったが正規に扱う物と裏ルートで取り引きを行う物があり、船倉の下にはそれら裏ルートで取り引きされている品々が隠してあった。届いていないのは、もちろん、裏ルートでさばく品々。
「その積み荷はいつ頃届くんだ?」
「よければ明日あたりには届くはずなんですが、こればっかりは。」
「そうか。積み荷が揃わなければ仕方ないな。ところで・・・お前も耳にしているだろうが・・・。」
警官は、そこで言葉を切って、声を低めた。
レオンから賄賂らしきものを受け取っていながら、その口ぶりから彼が本気で心配をしているように見えるのがキャンディには不思議だった。
「あちこちで、間もなくアメリカが参戦するという噂が出ているのは、知っているだろう。もし、アメリカが参戦することになれば、このシカゴ港はすぐに閉鎖され、軍の管理下に置かれるはずだ。」
「・・・と、言うと我々一般の船は出港も入港もできなくなる、ということですか?」
「そういう事だ。アメリカがドイツに宣戦布告すれば、すぐに徴兵制が敷かれ、全米の田舎から訓練所に集められた兵士たちが、船でヨーロッパへ送られることになる。このシカゴ港が、そのための拠点になるということだ。武器や物資を送る船も同じくここから出港するから、この港での一般の船の出入りはすべて凍結されることになる。」
シカゴ港は、今後いつ閉鎖されるかわからない状況なのだ。船を出すことができなくなれば、レオンたちの商売はあがったりだった。
「それじゃあ、シカゴ港が閉鎖された後は、ヨーロッパに向かう客船や貨物船は、どの港から出港することになるんでしょう?」
「ニューヨーク港を使うか、もっと遠い港になるか・・・。下手をすればしばらくはヨーロッパ航路はすべて閉鎖になるか、だろうな。」
実はその情報を既にレオンも把握していたのだが、あえてそれを口にすることはなかった。知らぬふりをして、他に有益な情報をもっていないか探る。それが、いつもの彼の流儀だった。
「もうこうなっちゃあ、アメリカの参戦は避けられないんですかね?」
レオンの言葉に、キャンディが隣でびくりと体を震わせ、小さく息を飲む。
「ヨーロッパの大戦は、すでに膠着状態であるのをお前も知っているだろう。だからその状況を打破するなんらかの起爆剤を連合国側も望んでいるはずだ。そのために『アメリカ参戦』は、喉から手が出るほど欲しいだろうな。」
戦車や化学兵器が導入され、多くの死者が出ているにも関わらず、決定的な勝敗を決める要因がみつけられないでいる戦局。このままズルズルと戦いが続けば、未曾有の被害になるのは見えていた。
「アメリカが参戦して、連合国側が勝利すれば、アメリカの威信も世界中に轟きそうですしね。」
「ああ。大統領がそう考えても不思議はないだろう。現状では参戦に反対する議員や国民の意見が多いが、それもこの先どうなるか読めない状態だ。だからこそ、レオン、お前たちはいつアメリカが参戦してもいいように、早く港を出て、しばらくは帰港するのもどこか別の港を利用した方がいい。」
「そうですね、クラークさん。感謝します。さっそく今後の航路を練り直してみないといけないな。港が閉鎖になっちゃあ、全ておしまいだ。」
「ああ、そうした方がいい。また何か情報が入ったら耳にいれてやる。」
「いつもすみません。またしばらく留守にしますが、また戻ったら連絡させていただきます。」
「気をつけろよ。ヨーロッパはどこも安全とは言いがたい。」
「はい。ありがとうございます。」
あとは二言三言言葉を交わした後、警官の後ろ姿が甲板から見えなくなるとキャンディは慌ててレオンに尋ねた。
「ねぇレオン、アメリカが参戦するって本当?ここが戦場になるの?」
アメリカが戦場になったら、ポニーの家やハッピー診療所はどうなるの?子供たちは?
キャンディは頭の隅で恐れていたことが、現実になりそうな気がしてパニックだった。体の中の血液が逆流するような感覚。すべての物が崩れ落ちて姿を失ってしまう、そんな世界に取り残されるようだった。
その問いに、レオンは感情のこもらない瞳で、息をするようにサラリと伝える。
「まぁ、遠くない将来、確実にそうなるだろうな。でも大丈夫だ。アメリカ本土は戦場になりっこない。ドイツ軍のフォッカーという戦闘機は、せいぜい185マイルくらいの距離しか飛ぶことができないんだ。だから奴らが戦闘機でアメリカまでやってくることはない。」
「じゃあ、その戦闘機を船に乗せてアメリカに運んだら?」
「バンビーナ、考えてみろよ。そんな方法でたった数機の戦闘機をアメリカに運んだところで、どうなる。奴らもそんなことは意味がないとわかっている。」
ひんやりとしたレオンの声がキャンディのに耳に届く。その冷たさは、冬の夜に似ていて、静かで孤独な響きだった。
「そうかしら?そうよね。でも……。」
あらためて今ヨーロッパが戦争中であることを痛いほど感じるキャンディ。
だめだわ、私ったら。感じているようで感じていないヨーロッパの戦争の影。キャンディは自分の呼吸が浅くなるのを感じていた。息ができない。そんな感覚。
あの空の向こうで何の罪もない人々が負傷し、亡くなっている。ステアの葬儀の時にあれほど戦争の恐ろしさを痛感したというのに、アメリカにいるとどこかよその世界の話のように感じていることにキャンディは身震いした。
「バンビーナ、確かにさっきの警官も言っていたように、俺はアメリカがそう遠くない将来、参戦すると思っている。だが、それは今じゃない。まだ少し先のことだとふんでいる。」
感情のこもらないレオンの言葉の中にどこかいたわるような空気がふっと入りこむ。
「だから、そうなった時に自分はどうするのか、何をしておいた方がいいのかよく考えて備えておかなければならないと思うぜ。きっと、バンビーナの養父も今は必死でアメリカ参戦に備えているはずだ。」
「君のいるアメリカを守りたい。」
そんなキャンディの耳に、時を越えてステアの言葉が届く。
戦場に派遣されたフラニー。あれから第二、第三の看護師たちがヨーロッパに派遣されていると聖ヨセフ病院の仲間から聞いていた。アメリカ全土から看護師の資格を持たない女性もボランティアで戦場に向かっているとも聞く。
「……私も戦場に……、看護師として向かうべき?」
以前にもよぎった思いだ。
唇から漏れたキャンディの本音に、同意できないレオンが告げる。
「戦場に行くことだけが世の中のためじゃないと思うぜ。バンビーナの周りにいる孤児の子供たちや周りの人間が幸せでいられるように務めることも大切な仕事じゃないか?看護師は戦場でだけ必要とされているわけじゃない。」
そう言ってから、レオンは何を俺らしくないことをほざいてるんだと自分に腹が立ってきた。自分でも何でそんなセリフが口をついて出てくるのかわからない。看護師がヨーロッパの戦場に行く。特別なことではないし、良くあることだ。
なのになんで俺はお節介を焼いてるんだ?ほっときゃいい。ほおっておくべきだ。いったいこの娘は俺に何をしたと言うんだ?この俺様に。
レオンはこの娘に関わるとなぜ自分がティーンエイジャーのように不器用になってしまうのか、無性に構いたくなるのか、わからなかった。
孤児、という言葉に同情しているのか?バカな。孤児なんでまわりにザラザラいるじゃないか。
アホか、俺は。
レオンは気持ちを切り替える。
そんなことより、アメリカが参戦するとなると今までのように武器の調達ができなくなるはずだ。需要は増えるがその分、入手が厳しくなる。今のうちに火薬や銃をかき集めなければ。
やることは山のようにあった。
アルバートの朝は、全米で発行されている主な新聞に目を通すことから始まる。
それにはジョルジュが目を通すべきだと判断した雑誌なども付け加えられ、それだけでも結構な時間がかかる。
それでもその時間はアードレー家当主としては何より大切で、アルバートがそれを欠かすことはなかった。
雑誌に、アードレー家とその一族の記事が掲載されれば、ジョルジュから報告が上がってくる。もちろん取引先や関連企業に関すること、アードレー家と交流のある人物の慶弔についても。
クールな鉄仮面、ジョルジュはその情報収集能力についてもアルバートが舌を巻くほど長けていた。その情報は、政治や経済はもちろん、隣の家の夫婦喧嘩のネタまで際限がなかった。
その日も、自分の執務室に入ったアルバートは、見慣れた各社の新聞が並べられているデスクの上に、珍しいスキャンダル雑誌が置いてあるのにすぐに気がついた。付箋が2枚ついている「イグナイト」という雑誌。
ジョルジュは特に何も言わなかったが、その雑誌の置き方からアルバートは彼の意図を読み取り、すぐにその付箋のページに目を通す。
ひとつめは、パーティーにアードレー家の幻の当主が現れたとの記事。これは想定内だ。
もうひとつの付箋のページを見たアルバートは、予期せぬ内容にページをめくる手を一瞬止めた。
あのテリュース・グレアムのまた新たなスキャンダル。スザナ・マーロウとは別の新人女優との仲を書き立てたものだった。
テリュース・グレアム。
本人は望まないだろうが、華があっていつも人々の注目を集めてしまうのだと容易に想像できた。それなのに、不器用で真っすぐな性格で。女性関係も上手にズルく渡ることができないような。
もう一度出直すとブロードウェイに戻ったのだろうが、彼もまた苦しんでいるのだろう___。
アルバートにはテリュースの心のうちが手に取るようにわかる気がした。
彼も進むべき棘の道を歩んでいるのだ。
自分の心を押し殺して。
アルバートはすぐにその雑誌をゴミ箱に放り込んだ。最近、デパートに納入しているキャラメル「カヘタ」の件でキャンディがちょくちょくシカゴにやって来ている。
この記事はキャンディには見せない方がいい。アルバートはそう判断した。
彼がスザナ・マーロウとの人生を選んだ以上、キャンディにいらぬ心配をさせたくない。そしてアルバートは、この件についてそれ以上深く考えるのを止めることにした。
次のお話は
↓
永遠のジュリエットvol.18〈キャンディキャンディ二次小説〉
冬はまだ始まったばかりだというのに、ブロードウェイは秋の衣を脱ぎ捨て、純白の雪の衣裳をまとうようにたたずんでいる、そんな...
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます💕
心から深く感謝しております。
次はまた、物語はテリィ編へと戻ります。テリィとスザナの婚約パーティーです。
毎日厳しい暑さが続いておりますが、みなさまご自愛くださいませ💕 ジゼル
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